これからは大陸国家の連携の時代へ(海の道よりも陸の道) 
Monday, June 1, 2015, 03:08 PM
6/1 晴 10時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル

一週間ぶりに自宅に戻りました。溜った洗濯物と衣替えで秋冬物を洗っているうちにお昼になりました。
二週間近く新聞が溜っており、まとめ読みします。

昨日は副島隆彦の学問道場の定例講演会がお茶の水であり、私も参加させていただいておりました。
今回のテーマは4月にアラブ旅行(ドバイからイラン)をされてきた副島先生の情勢解説、そして前座は石井利明氏のフリーメイソン(ユニテリアン)と福沢諭吉の知られざる関係の解説です。

明治維新はイギリスの工作によって成し遂げられた革命であることは言うまでもありません。
イギリスから見れば、シンガポールや中国を支配下に治め、つぎに日本を支配するという大英帝国の覇権の計画に基づいたものです。

19世紀の大英帝国は産業革命による鉄工業、重工業の勃興で、経済力・軍事力も最高レベルでした。
そして宗教面では英国国教会(カトリックに近いプロテスタント派)、経済面では国王の指示で世界征服に邁進していたのです。

日本も徳川の旧体制が終焉し、新たな議会制の政府ができました・・・めでたしめでたし。

なわけがない。

英国の支配を敏感に感じ取った人物が当時の知識人がただひとりいました。それが福沢諭吉です。

英国国教会は高教会(ハイ・チャーチ)という皇族・貴族が対象の宗派と低教会(ロウ・チャーチ)という庶民・貧乏人対象の宗派があります。信仰にも徹底した階級があるのです。そして表向きにはプロテスタントでも、規律がきびしく権力主義で、カトリックに近い体質です。

それを嫌ったキリスト教徒がアメリカに渡っていったという歴史があります。
幕末に勝海舟とともに咸臨丸(かんりんまる)で渡米した福沢諭吉は、当初はキリスト教文化には無関心だったようですが、宗教臭がなく、差別のないリベラルな考えのユニテリアニズムに深く関心を寄せていきます。

福沢の説く啓蒙思想はすべてがヨーロッパ、英国を経て米国で花咲いたユニテリアニズムなのです。

先端科学は宗教思想から離れて、天地創造主の存在だけを信じた科学者(具体的には代表は進化論のダーウィン)が活躍していきます。

諭吉はユニテリアンの総本山であるハーバード大学、MITの協力を得て、日本にもユニテリアニズムに基づいた教育機関を作ることを決めました。これが慶應義塾大学。

なぜ諭吉は明治政府の協力を求めなかったのか?明治政府からの任官を断ったのか?

英国の技術指導や資本により日本も殖産興業(具体的にはロスチャイルド=三井)を成し遂げていきますが、政権においては自由民権運動前の<初期の明治政府は英国の傀儡政府>であったからです。政府内でそれに気づいていたのが伊藤博文初代総理大臣。

だからロシアに接近して勢力均衡を狙ったり、当時は新興国であったアメリカによって英国の勢力と対抗していきます。

アメリカは石油王ロックフェラーの台頭でユニテリアニズムは変質していく



大資本の誕生で、良いユニテリアン(ヒューマン・ライツ主義)と悪いユニテリアン(強者生存説)がアメリカ内部で勢力を争うこととなり、ユニテリアニズムは金の力で変質していったのです。

これが石井研究員のだいたいのあらすじです。

政権中枢で宗教の手先が蠢いて、思想コントロールをしているのは現代日本においても同じです。

安倍内閣には日本会議(統一教会)出身議員が5人もいるゾ~



表向きはクリスチャンでありながら、アンチキリストの教義でカトリック、プロテスタントにつづく第三勢力となっています。ムーニズトはアメリカ中枢にも旧東ヨーロッパにもいるのです。

岸信介は首相退陣後は文鮮明と頻繁に会談していますし、安倍晋三は統一教会の広報誌「世界新報」にも寄稿しています。「美しい国」はタイトルも中身もパクりです。

このように宗教思想と政治は今でも密接なのです。

副島隆彦先生はアラブ人の民族衣装で、アラビアのローレンスになりきって、英国・フランスの帝国主義の犠牲となったアラブの民の代弁を怒りにまかせてしゃべり倒しています。そしてアラブ民族の統一独立運動を裏切って石油資源を奪い取ったサウジアラビアのサウジ家というヤクザ部族にも激しい怒りをぶつけています。


アラブの統一(団結)気運の盛り上がりに警戒する国々とは


すなわちイスラエル、米国、英独仏ですね。ビン・ラディンのタリバンがCIAがつくった組織であることは知られていますが、ISIL(イスラム国過激派)だってアメリカとイスラエルによって内乱を目的につくられたものです。

トヨタのピックアップや兵器はどこからISILへ供給されているのかというと、アカバ湾というヨルダンの南端、紅海の奥の港に米国の商船で陸揚げされているのだとか。

「分断して統治せよ(devide and rule)」の鉄則はウクライナでも行われているのです。

6時間ぶっ続けの講演会で聞くだけでヘトヘトになったでしょうね。

海の時代から陸の時代へ



中国タクラマカン砂漠からヨーロッパへ通じるシルクロード(ラクダの隊商ルートをNHKが名付けたにすぎない造語)を中国は整備しています。10億人の民を喰わすためにはそれだけの公共工事が必要なわけです。そこで立ち上げられたのがAIIB。

中国を筆頭に、新興国は国内インフラの整備と国民を喰わすための職を求めている人間的には普通の要求にすぎません。
ADB(アジア開発銀行)は将来、先進国(アメリカおよび日本)の市場とならない国にはお金は出しません。
だからこそAIIBへの出資国が予想以上に多かったという現実にすぎないのです。結果的には反米体制となってしまいましたが。

英国の参加は世界的には衝撃的であったかもしれませんが、英国と米国の関係では石井利明氏の講演から納得できます。思想面では英米間には溝があるのです。

中国の南沙諸島の埋め立てや領土拡大といった紛争の火種がありますが、基本的には中国は大陸国家で政治中枢は内陸に目を向いていること。道路や高速鉄道、電力(原発)、住居の整備が中国をはじめ新興国の大部分の政治課題なんです。

かつてはラクダが運んだ荷物、それもせいぜい100km程度の道が連なっていた場所を、集落間をつなげて一気に大量高速に人・物資を行き交いさせて街道に住む場所を作ることが早急の課題なのです。

シルクロードの中継点であるカザフスタン(首都アスタナ)には巨大な金融センターができつつあります。ここがニューヨークやロンドンに代わる世界金融の中心となることは、5年ほど前から副島隆彦先生は指摘しています。

陸路による国際間物流は過去は無かったのです。(NHKがシルクロードというファンタジーを唱えただけ)
これからはアジア地域、ユーラシア大陸でガス、石油パイプラインにつづいて、高速鉄道・高速道路が着々と出来上がっていくということ。

島国日本からは大陸国家の長大な計画とそのメリットが理解できないのです。行ってみて、住んでみないとわからないもんです。

中国にもロシア同様経済制裁をしてやれとネット右翼(ネトウヨ)がわめいているようですが、進出した企業の工場も従業員も経営者も人質ですから、そんな簡単にできるわけがないです。

国家社会主義は国民の幸福度とういう尺度を無視すれば、おっそろしいほど粘り強いのです。日本と同じ程度(一億2千万人)のロシアがいまだに軍事大国であることをみればおわかりになるでしょう。その10倍以上の人口(実際は16億人はいると推測される)の中国とは正面衝突はアメリカでさえできないことは普通に考えればそういう結論にしかなりませんよね。

(6/5追記:学問道場「重たい気持ちで書く掲示板」から転載)
[1792]先の日曜日(5月31日)の私たちの定例会は盛会で終わりました。次の仕事に向かいます。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2015-06-03 08:39:12

副島隆彦です。  5月31日(日)の私たち学問道場の定例会(自力での講演会)は無事、終わりました。
正確な人数は分かりませんが、400人の会場が埋まっていました。座れない、という苦情もなくて良かった。

 私は、合計5時間(午後7時15分まで)ずっと、ほとん喚(わめ)いていたので、さすがに、終わったあと、喉(のど)が枯れました。あまりないことだ。私は、立ったまま10時間でもずっと演説できる人間だ。生来の アギタトーレ(アジテーター)だから何ともない。 足腰がしっかりして、日頃の運動不足
を解消できて良かった。

私は、後半で、参加者の要望も会ったので、予定通り、アラビア人の男の服装(ディスダーシャ、にアガール )を着て演説をずっとやりました。 アラビア女性の黒一色の衣装であるアバーヤを、野田さんに着てもらって、披露しました。皆に、喜ばれました。 私は、このあと、アラビア人の勇壮な、軍人の踊りを、披露しようと思ったのですが、なんと、 刀(の代わりのアルミ製の物差し)が、床の舞台の隙間に落ちてしまって、踊れなくなりました。

 初めからの演題であった、「副島隆彦が、思いっきり 現下の問題を洗いざらい話します」の通りにできた。気分は良い。危ないこともたくさん話しました。この講演録は、一ヶ月以内に、DVD2枚組に制作して販売しますから、お待ちください。 

 今のシリア・北イラクの 暴れ者集団の IS(アイエス、イスラム国)の仕組まれた突如の出現、と、丁度今から100年前の ” アラビアのロレンス ” の話しが、見事(みごと)に重なるのである。 

 イギリス人 トーマス・エドワード・ロレンス Thomas Edward Lawrence (1888-1935) が、1914年から22年まで、アラビア人(エジプトからイラクまですべてのアラブ人)の団結と独立のために彼らを助けて闘った。

 イギリスの情報将校(連絡将校、リエゾン・オフィサー)として、「砂漠の叛乱」を起こしたアラブ人の部族長(シャイク)たちの連合体である ハーシム家 を助けて、本気で戦った。 そして、最後は、イギリス政治の残酷さの犠牲になって、消されていった。私、副島隆彦は、アラビアのローレンスの 悲劇の人生に、自分の人生を重ねあわせる。 

 アラビア語を話す考古学者だった、弱冠26歳の若造であった、T.E.ロレンスは、第一次大戦の始まりで召集され、現地に派遣され中佐(カーネル)となって、ハーシム家の フセイン・イブン・アリ-(ヒジャーズ王国、国王。メッカ太守)とその息子 ファイサル(シリア国王、イラク国王になった)、およびアブドッラー(現在のヨルダン国王は、その4世)たちを支援して、懸命に戦った。 そして、最後は、イギリス政府に裏切られて、用済みにされて捨てられていった。

 ロレンス中佐は、ファイサル国王(シリア王、イラク王)の従者、通訳として、1919年1月からのベルサイユ会議(第一次大戦の 敗戦国ドイツを裁くための会議。オスマン・トルコはその同盟国として、解体された )に参加した。 英と 仏は、 ハーシム家と約束していた、「アラビア世界をひとつにまとまって独立させてやる」と約束していたのに、その約束を狡猾(こうかつ)に破った。 それで、両者の板挟みになった ロレンスは、行き場を失った。 あとは、本を書いて、後世(こうせい)に真実を書き残すしかない。 だから、1927,8年に、『知恵の七つの柱』(セブンピラーズ・オブ・ウイズダム)を書いた。その一部が、『砂漠の叛乱』として急いで出版された。大きな評判をとった。

 だが、ロレンスは、自分の悲しい運命を、察知し、知っていた。

 パリ会議(ベルサイユ会議)あと、英と仏 のワルの帝国主義者たちは、いいようにアラブ人たちを騙して、自分たちのいいようにアラブ世界を分割した。シリアはフランスのものになった(1916年のサイクス=ピコ条約の英仏の密約どおり)。 このようにして今のアラブ世界がある。

 それでも、まだアラブ人たちのハーシム家を中心にした団結があったのに、そこへ、今度は、1924年に、横っ腹の リヤドから 暴力団的な 部族である、現サウド家の、アブドルアジズ・イブン・サウド が、メッカ(マッカ)に突撃してきた。そして、立派なアラブ世界の王(シャイク、エミール、さらにはカリフになれた)であるハーシム家の ファイサル・イブン・アリ-(もともとメッカ太守である) のヒジャーズ王国を崩壊させ、サウド家が奪い取った。

 サウド家の アブドルアジズ( この息子たちが今も、順番にサウジの国王である。今年1月からサルマン国王。70歳)の背後に、世界最大のガワール油田(ペルシャ湾岸)の利権を握った、アメリカからの資金援助と軍事援助があった。

 これで 全アラブ人の希望であった、(オスマン・トルコ帝国からの)独立と団結、の 願いは、叩き壊された。 愚か者の英、と仏の アホたちの背後から、抜け目なくアメリカが成長していたのだ。 

 ロックフェラー財閥 の巨大石油資本であうアラムコ=テキサコ=ソーカル=カルテックス(これらが今のシェブロン)が、サウド家のアブドルアジズ(リヤド太守)に、今のサウジアラビア(サウド家のアラビア)を作らせて、それで、アラブ人たちは、大きく分断されて団結を阻まれて、今の惨めなアラビア世界となった。 お調子者の、英と 仏は、自分たちが見下していたアメリカの帝国としての 隆盛にこの時、まだ気づいていない。

 英と仏 が、 惨めにアラブ世界から、撤退していったのは、このあと1956年のスエズ動乱のときだ。英仏軍は共同で、スエズ運河の利権を死守しようとして、落下傘部隊(空挺団)を投下して、スエズを軍事制圧していた。その時のエジプトは、アメリカが背後にいて支援していた(表面は、ソビエトの支援)ナセル大統領(軍事評議会によるクーデター)によるナセル革命の最中だった。

 英と仏は、泣く泣く、惨めにエジプトから撤退していった。スエズ運河はエジプトによって国有化された。この ときに、世界の覇権ははっきりとアメリカに移っていた。 以後、ヨーロッパも名実ともに、アメリカの属国の地域(リージョン)にはいった。

 今のIS(アイエス) が、奇妙なことを、 ヨルダンの アカバ港 (紅海に面している)から石油を密輸出していること。そして、まさしく この アカバ港から、トヨタ製のあのものすごい数のピックアップ・トラック(テキサス州のサンアントニオ工場製) を 陸揚げして、密かに、シリアにまで運んでいること。 IS への 軍事物資 と資金の支援も、今のサウジアラビアと、イスラエルと アメリカの軍事凶暴派であるネオコンとヒラリー派、CIAの特殊軍が、行っていることが分かる。

 そして、まさしく、このアカバ港こそは、あの映画「アラビアのロレンス」(1962年)のハイライトになった、アカバの要塞 への背後の ネジド砂漠からの ラクダ部隊の ベドウィンの奇襲部隊による、T.E.ロレンスたちの舞台だ。

このような真実の アラビア世界、中東、イスラム教徒たちの世界基準の研究を、急いで私たちもやらなければいけない。

 表面だけの IS 研究などで満足してはいけない。 私たち学問道場は、「アジア人どうし、戦わず(戦争だけはしてはいけない)、アジア人よ団結せよ 」 の旗頭(はたがしら)を掲げていることで、 同時に、「アラブ人(アラビア人)よ、団結せよ。真の独立のために闘え 」 と唱えないわけにはゆかない。

 こうなると、当然の帰結として、今の北イラクでの、 ISの集団というのは、同じアラブ人どうし(スンニー派であれシーア派であれ)を、分断して、互いに戦わせようとする、 恐ろしい 政治謀略 によって創作されたものだ、とはっきりと分かる。  アラブ人どうしを争わせ、殺し合いをさせることで、得をするのは、誰か?  このことを、私たち日本人は、本気で自分の頭で考えなければいけない。

 私は、4月に、中東、イラン、アブダビ、ドバイに 調査旅行に行けて本当によかった。 800キロメートル先の、サウジの首都リヤドにまでは、行けなかったのが残念(今は、旅行者は入国禁止)だった。が、多くのサウジ人の姿は見たから、それで我慢する。 そして、こうして 現代のアラブ、中東世界についての、大きな理解を私は作ることが出来た。それを、これからどんどん公表する。
 
 私の講演の前に、まず石井利明(いしいとしあき)君が、『福澤諭吉 とフリーメイソン=ユニテリアン教会(という当時の欧米の優れた最高級知識人たち から学んだ)』という講演をしました。  

 このままでは、日本は、イギリス(大英帝国)によって思うように従属国にされてしまう、と早くも1873年(明治6年)には、鋭く気付いた福澤諭吉(当時、38歳)は、1883年(明治16年)から、息子一太郎(いちたろう)の提言もあって、アメリカの東部ボストンのハーヴァード大学から、優秀な
 4人の ユニテリアン派宣教師でありながらハーヴァード大学の神学者、化学者である学者たちを招聘(しょうへい)する計画を実行した。

 「我が、慶應大学を、東洋のハーヴァード大学にせん(する)」という高い方針を実行した。アーサー・メイ・ナップ教授ら、当時のハーヴァード大学の気鋭の若手学者たちを招いた。そして、学生たちに、当時、世界最先端、最高級の授業をして、世界に追いつこうとした。

 そして、福澤は、なんと腹の底から嫌っていた、当時の日本国の最高権力者であった 伊藤博文(いとうはくぶん、初代、内閣総理大臣)と 組んで、同感しあって、「このままでは日本はイギリスの思うように操られる。それを避けるには、隆盛する新興大国である アメリカこそは、自分たちの手本であり、彼らのユニテリアン(という 近代学問=サイエンス=を教えることを堂々とやった) キリスト教プロテスタントの一派ではありながら合理的精神に満ちた、すぐれた学者たちから、学ぼうとした。  さすがに大きなワルではあるが伊藤博文もタダの馬鹿ではない。

 尊皇攘夷(そんのうじょうい)思想の後(あと)を継いで日本国の反体制運動の火柱となった 自由民権運動の限界を始めの始めから、福澤諭吉は、はっきりと分かっていた。だからずっと冷ややかに見ていた。 だから、ここで当時の日本の最高の頭脳は、福澤と、伊藤博文( 1909年に、ロシアと協調しようとして、ハルビン駅頭で、山県有朋 の陸軍銃殺隊に狙撃され死亡)だった。

 ユニテリアン教会の建物は、全国どこでも、その裏部屋がフリーメイソンの
秘密の会合と儀式をする場所になっている。そのひとつが、長崎のグラバー邸に残っている。軽井沢や 日光中禅寺湖のほとりの外国人館の中にもあった。

 1890年代まで、世界最高の優れた頭脳の欧米白人たちは、ユニテリアン=フリーメイソンの会員だった。ところが、20世紀(1900年代)に入って、勃興したアメリカ石油帝国の財界人達によって、このフリーメイソンは、内部から乗っ取られて、その頂点から、腐り果てていったようだ。

 そして、今、囁(ささや)かれている 世界を背後から人事、人材、資金力、軍事力であやつる 巨大な非公式の 秘密組織になった。 これらの 大きな秘密を、ひとつひとつ、掘り当てながら、 石井利明くんと、私の他の弟子たちの頑張りが今も続いている。

 たとえば、勝海舟(かつかいしゅう、江戸の小者、中間(ちゅうげん)階級の
出で、火消し衆の元締めの家柄)は、 幕府(とりわけ大久保一翁)が、 1830年代の 、優れた蘭学者(洋学者)たちの中に、潜り込ませて、スパイとして働くように用意周到に育てられた 策略の人間だった。だから、江戸幕府が倒れたあと、 没落した旧幕臣たちから、「勝のやつめ。自分だけ良い思いをしやがって」と怨嗟(えんさ)と呪いの声が上がっていた。榎本威陽(えのもとたけあき)は、さらに勝海舟の子分であった。

 だから、幕府海軍の頭(かしら)として、8隻の当時、世界レベルの最新鋭の洋式軍艦を持っていたのに、 薩長(さっちょう)の討伐軍(=官軍)が、箱根山を越えて、東海道を進軍して来たときに、小田原あたりの海から、艦砲射撃をすれば、薩長軍など、崩壊させることが出来たのだ。 ところが榎本は一発も艦砲を発射していない。 

  このことも、石井くん他、私も入って、12人で書いた、『フリーメイソン=ユニテリアン教会 が明治日本を作った』(成甲書房、2014年4月刊) に書いた。 この本は、本当に大事で重要な本です。 みんなに真剣に読んで欲しい。 いろいろ 今からでも暴(えば)き立てるべき歴史の真実が この 本に 山ほど書かれています。

(中略)

副島隆彦です。 私は、このあと、今週末の日曜日(6月7日)に、今も 戦争死んだ者たちの怨霊が、その海に漂っていると私は思った(先週行ったときに)、横須賀市で、「軍港 横須賀 150年の歴史の真実 」 を講演します。 今日のボヤキの方に、案内があります。


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歴史の教科書は嘘だらけ「戦国合戦の虚実」 
Thursday, May 28, 2015, 08:03 PM
古本屋で暇つぶしに買った本が意外とおもしろかったのでメモしておきます。
「戦国合戦の虚実」(鈴木眞哉著 講談社1998)

歴史探訪を趣味とする紀州雑賀衆(さいかしゅう)の末裔の著者が歴史の定説というものが、いかに根拠がないものか、また戦国時代の諜報撹乱工作で残された手紙を真に受ける権威者(主に東大)や嘘っぱちを明治以降の軍隊教育に当てはめた故にそれが定説として一人歩きしていることなど、歴史とは所詮は勝者の物語だということを切々と記したものです。

代表例として織田信長の長篠の戦いで戦法は一転したと、中学・高校では教わりますが後にも先にもそんな結果はないということ(爆)

そもそも戦上手の信長が火縄銃の三段打ちを「発明」したことになっていますが、それ以降もそれ以前にもそれで絶大な効果を上げた実例はないし、先を行くヨーロッパでも統制ができずに理想論に過ぎない空論と笑われているとのこと。

鉄砲を戦力にしたのは信長ではなく、紀州の雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれる一族だというのが著者の発見です。
雑賀衆といっても今でいえば農民ではなく、技巧集団(エンジニア/プロフェッショナル)といった種々雑多な職業の集まりに過ぎず、鍛冶屋だとか土木建築、航海士など土地に縛られない生き方をしていた人々の総称に過ぎないようです。

なぜなら和歌山市から海南市にかけては農耕には不適なところだったから。

このエンジニアリング集団が戦国から江戸時代初期にかけて裏で活躍したのでしょう。

信長は雑賀衆との戦いでは手を焼いた(負け続け)



信長といえば比叡山の焼き討ち(皆殺し)が宗教弾圧のように思われていますが、実情は反信長で繋がっていた本願寺と雑賀衆との長い長い戦いでもあったのです。

誰だって一対一で斬り合いたくない



武田の騎馬兵が長槍を携えて一列に突進してくるなんてのも全くのファンタジーです。実録によると馬は高位の部者の移動手段に過ぎず、戦場では後方に繋ぎ止められて、みんな徒歩で前線に赴いたのです。

そして弓で互いに射掛けて、石礫を投げ合っていたのがほとんどなのだとか。なぜなら武士の報償記録の70%が弓矢や礫の負傷だというのが室町時代から一貫しているわけです。

それじゃあ刀はどう使ったのかというと、報奨のために敵兵の首を取るために用いられたということ。
怪我や動けなくなった敵兵に止めを刺して、首を切り落とすために帯同したのです。

飛び道具こそが戦場の唯一の武器だった


どこが侍スピリッツだ、白兵戦は互いの消耗が激しいのでそんなに頻繁にやってられないのです。

井沢元彦氏も似たようなことを述べています。兵士とは自国の農民であり、重要な生産基盤です。だから稲刈りの時期は戦いはやらないのがどの領主の了解事項なのです。

信長が戦上手であり、家康が謀略が優れていたわけでもないというのが実例として述べられています。

私もそう思います。

歴史は勝者側が改変していきますし、阿る(おもねる)ために書かれたものもあるということをはっきりさせねばなりません。
ましてや戦国時代は裏切りや嘘で諜報工作が盛んでした。だからこそ、古文書の内容を真に受けると真実は見えてこないのです。

江戸時代の歴史書は徳川家へのおべっかへつらいのため



だから話を盛ってみたり、取るに足らない小さな戦(Battle)を大きく騒ぎ立てて、家康の功績を褒め称えることになるのです。
その悪影響は軍隊教育に繋がっていきました。白兵戦で突撃なんて日本ではまずないのです。

茂みから鉄砲を撃って撃退させる待ち伏せが戦国時代の常套だったようですし、秀吉が水攻めを好んだのは人道的な理由ではなく、兵糧攻めが一番安全で「皆殺し」できる手段だからです。

<戦下手>の信長を見限って秀吉は工兵を主力とした



謀略と兵糧攻めが自陣には安全で効果的な戦いであると見抜いたわけです。この基本戦略は現代にも通じていますね。

ところが日本の歴史家は、信長、秀吉、そして家康を神格化した家来や配下のおべっかの記録をあたかも真実のように捉えて、諜報や外部工作といった裏面をないがしろにしてきたわけです。
結局は明治から軍隊の精神論(竹やり精神)、白兵戦志向に繋がっていくわけです。

ほんとばかばかしい。

朝鮮人が慰安婦慰安婦と馬鹿みたいに騒いでいますが、

宗主国が中国になったからには当然のこと



歴史とは「強いものに巻かれろ!」が主眼ですから。

だから冷静に見れば韓国はアメリカの頚木(くびき)を外れたということに過ぎません。
だったら日本政府は人道的に同感して

韓国籍の風俗関係者を強制送還してやれ


ば済むこと。韓国の主力産業は女なのですから。今いる地方都市でも大挙してファミレスにいるのは少なくとも日本人ではないです。
何語でしゃべっているのかわかりません。(体格でなんとなくわかりますけどね)
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まさに「黒い巨塔」・・・最高裁事務総局の黒い支配! 「ニッポンの裁判」瀬木比呂志著 
Sunday, May 24, 2015, 10:27 PM
本日はホテルから更新しています。
今年一月に副島隆彦先生が推薦していた「ニッポンの裁判」(瀬木比呂志 講談社現代新書)を読了しました。


ほぼ4ヶ月枕元に置いていたのですが、ついつい後回しだったものを電車に持ち込んだら、驚天動地な内容で一気にむさぼり読みました。

我々が思い浮かべる裁判所の「正義」からは程遠い、とんだ法律の番犬です。
もちろんガードしているのは権力者側です。

ほとんどの方々の普段の生活において裁判所は馴染みはないでしょう。
また法律の専門家である弁護士に相談するような機会も、それほどあるものでもありません。
それでも

弁護士に相談したり裁判沙汰は人生に一度や二度はある


名誉毀損賠償や刑事事件の被告になることはまずはないでしょうが、たとえば交通事故に遭ったり、離婚や相続のもつれ、損害を賠償しなければならなくなった時、仕事や商売上のトラブルもあるでしょう。

または裁判員に選ばれて裁判に関わることになるかもしれません。
もしくは行政裁判の原告団に将来加わることだってあるかもしれません。

ですから、裁判所とは、判事とは、そして法律(憲法)判断の最後の砦である最高裁とはどのような存在であるのかを知っておいて損はないのです。

冤罪で刑事訴訟されることの恐怖



検事と判事が結託して、人間一人を抹殺することに躊躇をしない恐ろしい人間像があぶりだされてきます。
無罪判決は減点されるのが日本の裁判所であり、2600名もの裁判官を評定し、コントロールしているのが最高裁事務総局という部署です。
この部署は判事の最高点である最高裁長官を排出する部署であり、企業でいえば取締役会みたいなものです。

真の権力者という自惚れで与党ともずぶずぶ



行政訴訟においては、法の解釈はお手盛りで、「違憲状態」であるが合憲などという迷言も平然といえるこの遵法精神のなさはなんだろうかという疑問が、すべて氷解しました。

所詮は権力をもつ特殊な官僚組織であるということ



お笑いなことに平成26年に法曹改革と称して新設された法科大学院の志願者は1/5となっています。行く末はヒラメ判事となるか食えない弁護士ぐらいしか将来が見通せないことがわかったから当然でしょう。

それなら国家公務員試験で法務省のキャリアになるほうがましだと頭が良くて小づるい奴は考えるw

学問道場に掲載されていた副島隆彦先生の推薦文を転載しておきます。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:5


[1740]告発の書 「 絶望の裁判所 」 の著者への インタヴュー記事です。 重要です。  投稿者:副島隆彦 投稿日:2015-01-16

11:36:58


副島隆彦です。 以下に転載する 講談社の 「現代ビジネス」というサイト の インタヴュー記事は、『絶望の裁判所』(2014年2月刊、講談社新書 ) を書いた、瀬木比呂志(せぎひろし)氏 の 発言です。

 私は、昨年の春に、この『絶望の裁判所』 を読んで、この本は、大変な本だ、と分かりました。 日本の裁判制度と、最高裁 の 人事行政が、裁判官たちへの 監視と牢獄(ろうごく)状態になっていることを、瀬木氏は、満身の怒りを込めて(しかし淡々と穏やかに)書いています。

 瀬木比呂志氏は、東大の法学部を出て若くして裁判官(25歳で)になった本当の法曹(ほうそう)エリートだ。 現在60歳(1954年生まれ)だ。

瀬木比呂志は、裁判所(および法務省)内のエリート・コースを歩み続けた人だ。この人は、2012年に、明治大学法学部教授になって、追い出された、というか、裁判所という 牢獄の「裁判官という囚人」( 自分でそのように書いている)の身分から脱出して、この本を書いた。

 講談社現代新書 から出した。講談社という出版社は、すばらしい見識を持っていて、マンガと婦人雑誌で食べているように見せているが、本当は、日本国の国益を十分に考えて、控え目にして鈍重(どんじゅう)で慎重な動きだが、ときどき本当によい本を出す。 この本は、日本国民にとって最大級に優れた本だ。

 私は、昨年から、ずっとこの本の重要性 「良心的な裁判官たち自身が、収容所で厳しく監視される 囚人になっているのだ」という告発の内容をどうやって、皆に知らせようかと、考えてきた。 私なりの書評をして、絶賛し援護射撃をすればいいのだ、と考えてきたのだが、自分の仕事に追われて、それも出来なかった。 ずるずると今日まで来てしまった。

 この本は、この国の 法曹関係者と呼ばれる、裁判や法律関係でゴハンを食べている人たちの間でだけ、評判となり、ザワザワと、「最高裁のやっている、裁判官たちへの人事面からの締め付けはすごいよなあ。ヒドい世界だ。実際にそうなんだよ」 と、 裁判所職員とか、弁護士たちや、司法書士や、税理士たちでも、噂(うわさ)しあって、「お前、あの本を読んだか」と、酒の肴にして来たものだ。 こういう事情で一年が過ぎた。

 今からでも、私たち日本国民は、この『絶望の裁判所』という本を皆で、振りかざしてでも、騒がなければいけない。私たちの国の、裁判制度の 残酷なおかしさと、人衆抑圧に、本当の怒りの声を上げなければいけない。

 私は、以下に一枚の写真(画像)を貼り付けるが、この竹崎博允(たけざきひろのぶ)という男に、激しい怒りを感じている。この 愚劣極まりない、男が、最高裁判所長官として(昨年の2014年3月に退官して逃げた)、日本の司法(権力)のトップにいて、小沢一郎を、 検察審査会での強制起訴やら、検察審査会(最高裁の職員たち。だからゴロツキの竹崎の 手下たちだ)やらで、「法律という刃物」で、小沢一郎の 政治生命に致命傷を負わせ、私たち日本国民の 政治改革の大きな希望であった、鳩山・小沢政権を瓦解(がかい)させ、政治謀略で叩き潰した、その公然たる表舞台の 最高責任者だ。


竹崎博允・最高裁判所前長官(左) と 江田五月(右)

 小沢殺しを狙った裏組織の、恐ろしい人殺し部隊まである「三宝会(さんぽうかい。1998年結成)」の話ではない。公然たる表舞台の 三権の長(さんけんのちょう)である最高裁長官が、たくさんの違法行為を重ねて、小沢一郎たちを葬り去ったのだ。 私、副島隆彦の、アメリカの日本あやつり対策班(ジャパン・ハンドラーズ。アーミテージ、M.グリーン、ジョゼフ・ナイら )ゴロツキどもの手先となって蠢(うごめ)いた 竹崎博允(たけざきひろのぶ)への怒りは、今も怒張(どちょう)天(てん)を衝(つ)くほど深い。

 この男は、時代が変わって、少しでもよい時代になったら、絶対に あの2009年、10年、11年の、体制法律家(法律権力を握る者たち)の 悪事=犯罪=違法行為を、告発し起訴して裁判に掛けなければいけない。

 竹崎の犯罪は、あの時の警察庁長官や、最高検検事総長 のような下っ端の罪や、法務省の”赤レンガ組” どものの罪よりも、国家体制上の格が上だからそれだけ重い。こいつを縛り首にしなければいけない。

 この 一枚のパーティ会場での写真に竹崎と一緒に写っている 江田五月(えださつき)も許しがたい日本国民の敵だ、ということは、こいつが参議院議長(民主党の議員だった)の頃から、どんどん馬脚を顕(あらわ)していた。
江田五月の父親は、江田三郎(えださぶろう)で、社会党右派を率いた大物政治家だった。社会党の左派の政治家たちと、何十年もいがみ合っていた。

 やはり、親子2代でアメリカの手先を忠実にやった男だ。江田五月は、1960年安保の時には、安保ブンドの下っ端として国会議事堂を取り囲む運動とかに、東大生の時は参加していた男だ。そのあとすんなりと裁判官になって、そのあとリベラル派の政治家になったと思ったら、やっぱり土壇場で、鳩山由紀夫と小沢一郎を裏切った。やっぱり江田五月は長年かけてアメリカに育てられた男のひとりだった。

 彼の人生の最終段階でそのことが大きく露呈した。 だから、この写真の通り、竹崎博允と若い裁判官時代の同期生なのだろう、談笑している。本当にワルいやつらだ。

 そして瀬木比呂志(今、60歳)は、この竹崎博允(1944年生、今、70歳)が、最高裁の事務総長(2002年から2006年。同時に、この事務総長のまま最高裁判事の末席にいる )が、このようにすべての裁判官の人事権を一手に握っていたときの 上司だ。 彼ら東大法科エリートは、地方の田舎の裁判所の”ドサ回り”はしない。  

 瀬木比呂志は、この竹崎博允(たち)から酷(ひど)い目にあったのだ。だから、明治大学に58歳で逃げて、その時に、自由にものが言える言論の自由を、生まれて初めて手に入れたのだ。 裁判官たちは、裁判官室に居ることは、背後の席にいる部長という上司たちに、ずっと背後から監視されている。裁判の判決の内容まで、チェックされる。 そして、「裁判官としての(優れた知能と)良心に基づいて裁判」をしようとすると、圧力がかかる。

上(うえ)にヘイコラして言いなりの裁判をする裁判官たちのことを、ヒラメ という。ヒラメという魚は、砂地にべったり隠れて上の方ばかり見ている。だから、何百万年の間に、反対側の目玉までが、表面に出てきた。 

 瀬木比呂志は、裁判官時代に、民事訴訟法の大変すぐれた 実務から生まれた論文集を書いたそうだ。法曹界では、瀬木のその民訴の論文と実践的な理論は高く評価され尊敬されている。弁護士たちがそのように言っている。瀬木比呂志は生来の頭脳明晰な人なのだ。
 
 瀬木比呂志は、裁判所の裁判官たちの世界で長年ひどいイジメにあったのだ。体制、権力者側の言うことを聞かないで、自分の良心で裁判をしようとすると、嫌われて爪弾(つまはじ)きにされる。

瀬木比呂志に悪口をいう人たちがいて、「瀬木は、自分が、最高裁の判事になれなかったものだから、ヒガミ根性で、あんな本を書いたのだ」と 言う。生来の体制派の人間たちというのは、こういう言い方をする。 自分はいつでも、勝ち組である。組織、団体の中で 左遷(させん)され冷や飯を食うことだけはしないように、抜け目なく動く。

 いつも力(ちから)のある者のそばに、スリスリと擦り寄って、お追従(ついしょう)を言ってヘイコラして、背骨が曲がったまま、卑屈に振る舞って、生き延びる。 人間は、大きく分ければ、この体制追従型(たいせいついじゅうがた)か、そうでなければ、自分の頭で考えて自力で生きる型の 2種類に分けられる。副島隆彦の本を読んでくれる人は、ほとんどが後者の方だろう。

 だから、瀬木比呂志が、裁判所から離れて私立大学に移って、初めて自由になって、この『絶望の裁判所』を書いて大きな真実を表(おもて)に出すことができた。以下に『絶望の裁判所』(2014年2月刊、講談社新書 )の裏表紙 の 文章を載せる。 ものすごく重要だ。 

 ここには、かつて1970年代に 「青年法律家協会」(略称、青法協=せいほうきょう=)に集まった、優れた優秀な若い裁判官たちを、体制側が、政治弾圧したことの、証拠(証言)が書かれている。歴史の星霜(せいそう)を経て表に出た 驚くべき事実だ。 これが日本の裁判所なのだ。 ”悪の巣窟(あくのそうくつ)”そのものだ。 

『絶望の裁判所』 の 裏表紙 の 文

一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録
最高裁判事と調査官の合同昼食会の席上、ある最高裁判事が、突然大声を上げた。
「実は、俺の家の押入にはブルーパージ(大規模な左派裁判官排除、思想統制工作。
最高裁の歴史における恥部の一つ)関係の資料が山とあるんだ。一つの押入いっぱいさ。
どうやって処分しようかなあ?」
すると、「俺も」、「俺もだ」とほかの二人の最高裁判事からも声が上がり、昼食会の
会場は静まりかえった。こうした半ば公の席上で、六人の裁判官出身判事のうち三人も
が、恥ずかしげもなく、むしろ自慢気に前記のような発言を行ったことに、他のメンバー
はショックを受けていた。 (本書より。内容は一部要約)


 副島隆彦です。これは、真に絶句すべき文だ。 この本の 扉を開いた「はしがき」の冒頭にも、 「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」   ダンテ『神曲』(副島隆彦注記。本当は、『神聖を装った、ローマカトリック教会という喜劇の組織』という意味だ ) の 「地獄編第三歌 」とある。 瀬木比呂志にとっては、自分が33年間 務めた 最高裁判所というところは、「裁判所という地獄への門」だったのだ、と 分かったのだ。

 瀬木比呂志は、若い裁判官の時から、最高裁の調査官(ちょうさかん)という、超エリートたちだけがなれる 裁判官になっている。これは、最高裁判事(15人いる)たちの下働きをする 若手のエリートたちで、実質的に、彼ら若手が、最高裁にまで上がってくる 事件の多くの、大量の ”ゴミ扱いの事件”の 判決文とかを書く。 そして、その年の 重要だった判決文を調査して、集めて、 「民集」 と 「刑集」という分厚い本にする。それは、民事裁判、刑事裁判の判決文 とその経緯の判断文とかを 集めたもので、これが、「判例(はんれい)」 =先例拘束(せんれいこうそく) というものになる。

 瀬木比呂志は、だからずっと最高裁内(および法務省)のエリート・コースを歩んでいるので、地方の”ドサ回り”をしていない。だから、人事と能力判定がまっとうであれば、自分が当然に最高裁の判事(=裁判官)になる、なれる、と信じて疑わなかっただろう。 だが、裁判所も、他の公務員たちの役所と同じく、汚れているから、そうはならない。

 だから、瀬木比呂志がこの、組織の内部からの暴露本、告発の書を書いたことを指して、「瀬木は自分が出世できなかったことの妬(ねた)み、ヒガミで、こういうとんでもない本を書いたのだ」と 腐(くさ)して、攻撃する者たちが、当然出てくる。  それは現世のおける、大勢順応(たいせいじゅんのう)、体制追随(たいせいついずい)の歪(ゆが)んだ生き方をする者たちと、 冷や飯食いを覚悟して、それでも清新な立派な人間としての生き方を貫く者たち との 闘い だから、甘んじて引き受けるしかない。

 私、副島隆彦は、当然、この 瀬木比呂志の生き方と、彼が書いた本を全面的に支持し、賞賛し、応援する。これは、裁判所をめぐる日本国民の闘いの場なのだ。 だから、瀬木比呂志の『絶望の裁判所」は、ものすごく重要だ。

 皆、買って読むべし。そして、ザワザワと日本国内に、「裁判所の内側はひどいそうだよ。特に人事面で腐敗しきっているらしい」とうわさ話を広げなければいけない。

 前掲した、この本の裏(うら)表紙の一文を読んで、目くじらを立てないようでは、とても知識人、読書人とは言えない。 

副島隆彦拝




(転載貼り付け始め)
「 日本の裁判は本当に中世並み 『ニッポンの裁判』著者・瀬木比呂志氏インタビュー 」

 『絶望の裁判所』 は序章にすぎなかった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41659

 講談社の現代ビジネス という サイト から
2015年01月07日(水) 瀬木比呂志インタヴュー  

瀬木比呂志氏は、最高裁判所中枢を知る元エリート裁判官であるのみならず、民事保全法や民事訴訟法のエキスパートとして法曹界で高い評価を得ている。このような信頼できる専門家による、横断的な判例解説は過去に例がない
 2015年1月16日、講談社現代新書から、日本の裁判のリアルな実態を描いた『ニッポンの裁判』が刊行される。著者の瀬木比呂志氏は、明治大学法科大学院専任教授で元裁判官。 裁判官たちの精神の荒廃と堕落を描いた、前作『絶望の裁判所』は法曹界を騒然とさせたのみならず、司法をテーマとした一般書籍としては異例のベストセラーとなった。

 「『絶望の裁判所』は序章に過ぎなかった・・・・・・」と帯のコピーにあるとおり、『ニッポンの裁判』の衝撃度は前作をはるかに上回る。

冤罪連発の刑事訴訟、人権無視の国策捜査、政治家や権力におもねる名誉毀損訴訟、すべては予定調和の原発訴訟、住民や国民の権利など一顧だにしない住民訴訟、裁判の「表裏」を知り抜いた元エリート裁判官の瀬木氏をも驚愕させた「ニッポンの裁判」は、もはや中世の暗黒裁判並みの「超」絶望的なものだった。


Q: 『絶望の裁判所』刊行から約1年が経過しましたが、あらためて司法批判の第2弾、しかも私のみるところより強力、衝撃的で、分量も大きい書物を刊行されたのは、なぜでしょうか? 

瀬木:『ニッポンの裁判』は、『絶望の裁判所』の姉妹書です。『絶望』が司法制度の構造的批判の書物であったのに対し、『ニッポン』は日本の裁判の総体としての分析、批判を内容としています。

 ですから、内容は関連していますが、相互に独立した書物です。もっとも、双方の書物を読むことでより立体的な理解が可能になることは間違いありません。その意味では、車の両輪のような関係ともいえます。

 裁判所、裁判官が国民、市民と接する場面はまずは各種の訴訟ですよね。そして、その結果は、判決、決定等の裁判、あるいは和解として、人々を、つまりあなたを拘束します。

 つまり、裁判や和解の内容こそ国民、市民にとって最も重要なのであり、制度や裁判官のあり方は、その背景として意味をもつにすぎないともいえるのです。その意味で、『ニッポンの裁判』は、どうしても書いておかなければならない書物だと思っていました。

 裁判というものは、日本人の多数が思っているよりもずっと重要なものです。各種の法規は、個々の裁判、判例によって初めて具体化されるものだからです。

 また、裁判の結論というものは、個々の裁判官の思想、人間性、能力等によっていくらでも変わりうるものであって、その裁量の幅も非常に大きいのですよ。

Q:なるほど。それでは、なぜ、『絶望の裁判所』のほうを『ニッポンの裁判』に先行させることを決められたのしょうか?

『ニッポンの裁判』執筆に当たって、瀬木氏は様々な判例を詳細に分析し、凄まじいまでに劣化した「ニッポンの裁判」の実態に絶句したという

瀬木:それは、裁判の内容を正確に理解するのが、それほどやさしいことではないからです。法学部や法科大学院の学生たちにとってさえ、最初のうちはそうです。

 僕が、裁判の分析に先行して、まずは、誰にとってもその形がみえやすくその意味が理解しやすい制度の分析を行ったのは、そのほうが裁判の内容の理解も容易になるからということが大きかったのです。でも、逆に、『ニッポンの裁判』を先に読んでから『絶望の裁判所』を読むという順序でも、裁判と制度の絡み合いはよくわかると思います。ああいう裁判所、裁判官だから、ああいう判決が出るのだ、ということですね。

『ニッポンの裁判』では、僕のこれまでの裁判官、学者、そしてライターとしての経験とキャリアを総動員して、日本の裁判のあり方とその問題点、その核心を、具体的な例を挙げながら、詳しく、かつ、できる限り興味深く、わかりやすく、論じることに努めました。

 これまで語られることのなかった最高裁暗部を告発し、ジャーナリストの魚住昭氏から「最高裁に投じられた爆弾! 10年に1度の衝撃作」と絶賛された『絶望の裁判所』


Q:確かに、興味深いだけでなく、非常にわかりやすい書物ですね。『絶望の裁判所』の大きな書評(斎藤環氏。2014年5月11日朝日新聞読書欄)にあった、『複雑明快』という言葉が、この本にもぴったり当てはまるような気がします。

 320頁というヴォリュームですが、その内容はそれこそ500頁ほども「濃密」なのではないか。しかも、面白く、また、すごくリアリティーがあって、一気に読ませられてしまいます。

瀬木:ありがとうございます。

僕は、先ほど述べたような3つの仕事で、興味深く、わかりやすく、正確に「伝える」のがいかに難しいかということは肌身にしみて感じてきました。『ニッポンの裁判』では、正確さや的確さは保ちつつ、よくある無味乾燥な法律的記述は絶対に避けるように努力しています。

その成果が実ったとすれば、うれしいですね。

Q:『絶望の裁判所』も衝撃的な作品でしたが、『ニッポンの裁判』の衝撃度はそれをはるかに上回ると感じました。日本の司法は、「絶望」という言葉ですら控えめに思えるほどの「超」絶望状況にある。驚きました。

2012年まで裁判官だった瀬木さんでさえ、あきれ果てられているようですが・・・・・・。

瀬木:そうですね。この本を書くために、日本の裁判の全分野についてかなり掘り下げたリサーチを行ったのですが、それが進むにつれて、分でも驚いてしまったというのが事実です。「ここまでひどいのか、ひどくなっているのか!」ということですね。

僕は、子どものころから一度として左派や急進派の思想に傾倒したことはなく、基本的には、芸術と科学を愛する一自由主義者、一介のボヘミアン学者にすぎないのです。

『絶望』と『ニッポン』では、表現やレトリックについてはかなり鋭利なものを用いていますが、僕の思想や考え方自体は、基本的には、欧米一般標準の自由主義にすぎず、特に先鋭なものではないと思います。

たとえば、僕の筆名の書物や専門書のタイトルや内容をみていただいても、そのことは明らかだと思います。

 しかし、そんな僕でも、あらためて日本の判例群を、虚心に、また、分析的に読み直すと、大きな違和感を感じざるをえませんでした。

それらの判例群から僕が得た率直な印象は、残念ながら、「未だ社会にも政治にも裁判にも前近代的な残滓(ざんし)を色濃く残す国のそれ」というものだったのです。この事実は、僕自身が、この書物を書くために、素材になる裁判、判例を選択してゆく過程で、少しずつ気付き、やがて確信するに至った、大変苦い真実といえます。

Q:とにかく全編次から次へと驚きの連続ですが、特にショッキングだったのが、第3章で詳しく分析、批判されている刑事裁判の腐敗です。

袴田裁判の冤罪、そして恵庭OL殺人事件の「超絶望的」な再審請求棄却決定には震撼させられました。ひとたび刑事事件で訴えられたらも

はや逃れる手はない、という印象を持ちました。

袴田(はかまだ)事件、恵庭OL殺人事件などは、日本の冤罪裁判の「氷山の一角」にすぎないと、瀬木氏は分析する

瀬木:袴田事件再審開始決定は、最重要証拠であったところの、袴田巌さんのものであるとされた、血液の付着した五点の衣類について、捏造(ねつぞう)の疑いがきわめて強いと明言していること、そして、死刑の執行停止のみならず、裁量により、拘置の執行まで停止して袴田さんを釈放したことなど、刑事系にも良識派裁判官は存在することを示した決定でした。

しかし、一方、刑事に詳しい弁護士たちが、「現在は『再審冬の時代』であり、袴田事件のように新たなDNA型鑑定結果が出た、あるいは、真犯人が判明したなどの『誰が考えても無実』という事件以外では再審は開始されなくなっており、次々と棄却決定が出ている」との意見を述べていることにも注意すべきです。

たとえば、先の恵庭(えにわ)OL殺人事件再審請求棄却決定です。全体として、この裁判の証拠評価は本当にほしいままで、本当に呆然とせざるをえません。

簡単にまとめれば、こういう事実認定なのです。

 「片手でどんぶりも持てない小柄で非力な女性が、被害者に怪しまれることなく車の運転席から後部座席にいつの間にか移動し、自分より体格、体力のまさった被害者を、後方から、タオル用のものを用いて、ヘッドレスト等に妨げられることもなく、やすやすと、また、一の痕跡(被害者の指紋、毛髪、失禁の跡等)を残さず絞殺し、自分より重い死体を間髪を容れずに抱えて車両外に下ろし、ごく短時間のうちに、そしてわずか10リットルの灯油で、内臓が炭化するまで焼き尽くし、さらに街路灯もない凍結した夜道を時速100㎞で走ってアリバイ作りをした」

 そして、細かな部分をみてゆくと、さらにおかしな点が多々あります。そういう点を数え上げてゆくと、きりがないのです。たとえばアメリカの陪審制でも、この証拠関係で有罪はありえないだろうと思います。あるとすれば、黒人に対する偏見が根強く、その人権がほとん

ど認められていなかった時代の南部における、黒人被告人に対する裁判くらいではないでしょうか。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が踏みにじられていて、本当にこわいです。

 国策捜査の標的とされた者の立場から書かれた『国家の罠』(佐藤優、新潮文庫)の中にある「『あがり』は全(すべ)て地獄の双六(すごろく)」という言葉は、日本の刑事裁判においては、決して誇張ではありません。「明日(あした)はあなたも殺人犯」であり、「高裁でも、最高裁でも、再審でさえも救済されない」のです。また、地裁で無罪なのに高裁で有罪とされた冤罪事件(東電OL殺人事件)もあります。実際、日本の裁判では、民事でも刑事でも、地裁が一番よく、高裁や最高裁がおかしいということが多々ありますね。

 昔の映画になりますが、冤罪を扱った『真昼の暗黒』という作品があります。左派良心派として知られた今井正監督によるものです。その映画の中に出てくる「まだ最高裁があるんだ!」というセリフが有名になりました。でも、実際には、「まだ高裁・最高裁があるんだ!」は、日本では、権力側の言葉ですね。

Q:刑事系裁判官はなぜかくも有罪にこだわるのでしょうか? 誰の目からみても無理が大きいことが明らかな判決を重ねて追認するような司法判断が続くことは、素人にはおよそ理解できません。

瀬木:正直にいって、僕にも、全く理解できません。僕には、33年間裁判官を務めてもなお、総体としての裁判官たちの姿勢や考え方に、理解しにくい部分が数多く残っていました。まあ、だからこそ、筆名の本を書き、研究に打ち込み、大学人に転身することにもなったのですが。

でも、民事系の裁判官の場合には、よくない判決でも、まだ理由がわかることが多いのですね。たとえば、「裁判所当局がこわかったのだろうな」とか、「子どもが難しい時期に遠方に左遷されたりしたら困っただろうから」とか、「ともかく出世しかない人だから」とか、あまり立派な理由ではないかもしれませんが、まあ、想像はつく(笑)。

 また、ある意味、人間的な理由という面もないではないですね。ただ判例の大勢、無難で保守的な先例に事大主義的に従っているだけという場合が一番多いですが、それはそれでわかりやすい。

 ところが、刑事のかたよった裁判、たとえば恵庭OL殺人事件再審請求棄却決定などだと、もう、全然理解できない。その裁判長自体はちゃんとした裁判官にみえたのに、という声は弁護士からも出ていて、いよいよわけがわからない。1人の人間の人生が、その裁判の結果にかかっているわけですからね。

 それにもかかわらず、有罪推定どころか、可能性に可能性を重ね、無理に無理を重ね、何としてでも「有罪」という結論に到達しようと、なりふり構わず突き進んでいる印象を受けるのです。

袴田事件の証拠の脆弱性は明らかであり、無罪にしても検察、警察がそれを非難できるわけがない。

 恵庭OL殺人事件についても、再審請求における検察の主張立証は、事実上白旗を掲げているに等しいようなものであったといわれます。

だからこそ、よもやの請求棄却決定に、弁護団にも、報道に携わっていた記者やジャーナリスト、関心を抱いていた学者の間にも、戦慄が走りました。

 なお、今の質問については、第5章の、「刑事・行政・憲法訴訟等における裁判官たちの過剰反応の根拠は?」という項目で、僕に推測できる限りのことはまとめています。

Q:刑事訴訟も悲惨ですが、第5章の行政訴訟も本当にひどいですね。官僚にひたすら甘く、住民にひたすら厳しい。「地方議会の住民訴訟債権放棄議決是認判決」には驚きました。怒りを通り越して、これはブラックジョークですね。


瀬木:住民訴訟で大変な苦労をして住民と弁護士が勝っても、そうして成立した地方自治体の首長等に対する債権を、首長等と結託した地方議会がその議決で放棄してしまう。地方自治法96条1項10号(議会に権利放棄の議決を認めている)に基づく議決なのですが、この条文が放棄を予定しているのは、誰が考えても放棄が相当といった、たとえば形骸化した債権等であって、債権管理の効率化のための規定のはずです。

 先のような議決は、明らかに法の悪用です。それは、首長等の行った違法行為を議会が許すことを意味しますが、議会にそのような権限があるかは、誰が考えても疑問でしょう。


 実際、住民訴訟を規定する地方自治法を所管する総務省の一部局に近いとさえいわれる地方制度調査会(内閣府の審議会等の一つ)でさえも、さすがに、2009年6月の答申で、「このような債権放棄議決は住民訴訟制度の趣旨をそこなうことになりかねないからこれを制限するような措置を講ずるべきである」と述べていました。

 ところが、最高裁は、2012年に、このような議決について原則有効という判断をしてしまいました。「住民が勝っても首長の債務は帳消し。原則それでOKよ」ということです。「唖然、呆然の『債権放棄議決原則有効判決』」であり、弁護士や行政法学者からも猛反発がありました。

 住民訴訟で勝訴しても、地方議会が首長の債務を帳消し。これだけでもあきれ果てるのに、最高裁がこの決定にお墨付きを与える。日本の住民訴訟はもはやブラックジョークの極みに達したと、苦笑する瀬木氏
 ホント、ブラックジョークですよね。『黒イせぇるすまん』(藤子不二雄A)というブラックジョークの漫画がありましたが、あのセールスマンが漫画の「オチ」で下しそうな判決です。「住民が勝っても首長の債務は帳消し! ホーッホッホッホッ・・・・」と、彼の高笑いが聞こえてきそうですね。

 しかも、千葉勝美裁判長(裁判官出身)は、その補足意見で、債権放棄議決について、「住民訴訟がもたらす状況を踏まえた議会なりの対処の仕方なのであろう」と、「深い」理解を示しています。

 さらに、判決の判断枠組みには同調しつつも、「さすがにこの事案では下級審の結論(議決は違法)が支持されるのではないか」と述べた須藤正彦裁判官(弁護士出身)の意見に対し、これを執拗に批判しつつ、須藤意見は「裁判所が議会の裁量権行使に直接介入していると見られるおそれ」があるものだ、と論じているのです。

 すごいですね。ここまでくると、「黒いセールスマン」も恐れ入って退散してしまうのではないでしょうか。「さすがの私も、最高裁判事には負けました。もはやアートの域に達したブラックです」って。

Q:第4章では、政治家の圧力により名誉毀損損害賠償請求訴訟の認容額が一気に高額化したことが明らかにされています。しかもその後の判決はメディアにひたすら厳しい。最近は、質の高い調査報道でさえ訴えられれば名誉毀損訴訟で勝つことは至難といわれています。裁判官の権力追随判決で、私たちジャーナリストも随分と仕事がやりづらくなっています。

瀬木:これも、事実関係を調べているうちに呆然としてしまいました。裁判所当局が、政治家の突き上げに応えて2001年に司法研修所で御用研究会を開催し、御用論文の特集が法律雑誌に掲載され、その後、一気に認容額が跳ね上がっているのです。

さらに問題なのは審理、裁判のあり方です。

 たとえばアメリカでは、この種の訴訟については、表現の自由との関係から原告にきわめて高いレヴェルの立証が要求されており、2000年以前の日本の判例にも、同様の考慮はありました。

 ところが、近年の日本の判例は、被告の、記事の真実性、あるいは真実であると信じるに足りる相当性(たとえ真実ではないとしてもそう信じるに足りる相当な理由があれば免責されるということ)の抗弁を、容易なことでは認めなくなってしまいました。その結果、メディアの敗訴率は非常に高くなり、「訴えられればおおむね敗訴」というに近い状況となっています。

 それが、「最近は、質の高い調査報道でさえ訴えられれば名誉毀損訴訟で勝つことは至難」という状況なのです。これは、認容額の一律高額化以上に大きな問題です。いわば、「知る権利」の基盤が裁判所によって掘り崩されているわけです。

 「日本の裁判所は『憲法・法の番人』ではなく『権力の番人』である」という傾向は昔からあったのですが、それでも、ここまで露骨なことはさすがにかつてはなかったような気がします。

 また、こうした訴訟は、たとえ被告が勝つ場合であっても、莫大な金額の損害賠償請求を起こすことだけで、ライターや出版社を意気阻喪、萎縮させる効果があります。

 第5章で触れているスラップ訴訟、つまり、国や地方公共団体、あるいは大企業等の大きな権力をもった者が、個人の反対運動や告発等に対抗し、それを抑え込むことを目的として提起する民事訴訟、ということですが、弁護士から聞いたところによれば、その疑いのある名誉毀損訴訟もかなりあるということです。

Q:超絶望の判決群に本当にゲンナリしますが、大飯(おおい)原発訴訟など思い切った判決も出ています。特に、原発訴訟は大きく舵を切ったように見えますが?

大飯(おおい)原発訴訟は、司法が原発訴訟に対するスタンスを大きく変えたかのように報じられているが、瀬木氏は、最高裁による司法統制はそう簡単には変わらないと分析する(写真は白煙を上げる福島第一原発3号機)

瀬木:大飯原発訴訟の第一審差止め判決自体は、この裁判長の従来の判決が「大きな正義」を貫く方向のものであったことを考えるなら、一貫しており、基本的には評価すべきであると僕も思います。

ただ、原発訴訟一般についていえば、僕は、やがて原発運転差止めの判決が出ること自体は、ある程度予想していました。

 それは、第一に、福島原発事故後のこの時点では日本の原発がすべて運転停止中であって(もっとも、その中で、大飯原発だけは2012年7月から2013年9月までは稼働していましたが)、その意味では差止め(実質は運転再開禁止)がむしろ世論の動向に沿った判断だったからです。

 第二に、福島原発事故後の2012年1月にやはり司法研修所で全国の地裁裁判官を集めて行われた研究会で、裁判所当局が、原発訴訟について方針転換を行っているからです。

 こうした研究会を裁判官たちが自主的に行うことは120%ありえず、この研究会が、名誉毀損損訴訟に関するそれの場合と同様に、裁判所当局が表に出ない形で裁判官たちをコントロールするために開催されたものであることは、間違いないでしょう。

 最高裁事務総局は、1976年と1988年に最高裁で行った裁判官協議会では露骨に原発訴訟の方向を却下、棄却方向に統制しているのですが、原発訴訟に限らずそうしたやり方が批判されたことから、近年では、司法研修所の研究会で、よりみえにくい形で、同様のことをやっているわけです。

 僕がこの研究会について集めた情報から判断して、この研究会は、裁判所当局、最高裁事務総局が、原発事故を防げなかった裁判所やもんじゅ訴訟最高裁判決等に対して強い批判があったことから、裁判官たちの手綱を多少ゆるめるために開いたものとみてよいと思っています。

「おまえたち、世論がうるさいから、原発については、とりあえず踏み込んだ判断をしてもいいかもよ」というサインを出したということですね。

 もっとも、この研究会の開催意図やそこで示された裁判所当局の意向(研究会の中核発言者である一部裁判官を通じて示唆されたと思われるそれ)は、名誉毀損訴訟の場合のように明確なものではありません。政治と世論の雲行きを見ながら、原発容認の空気が強くなればまた路線を元に戻す可能性は十分にあると思います。

 ただ、もう一度確認すれば、大飯原発訴訟第一審判決自体は、判断の枠組み等には書物でも一定の留保は付けましたが、基本的には評価すべきものと思っています。

Q:そうですか。そうだったんですね・・・・。いや、真相をうかがうと本当に驚くしかありません。原発訴訟についてさえ、「ガス抜き」という権力側の要請が裏面で働いているのですね。最高裁事務総局による裁判官の裁判・思想統制の見事さは、さっきのお言葉にもありましたが、もはや芸術の域に達していますね。

瀬木:権力というのは、本当に強力で、したたかなものですよ。それは、正直にいって、権力の動き方を近くでみたことのある人間にしかわからないかもしれません

半沢直樹シリーズ(池井戸潤)という皆さん御存知の人気小説があって、僕も1冊だけ読んでみましたが、ああいうふうに、権力のほうから、「これからやっつけるよ」と言ってくれれば、反撃もできるでしょう。でも、たとえば裁判所当局は、そんなわかりやすいことはまずしません。

 都合の悪い判決や論文を書いた裁判官に対する報復や締め上げは、時間が経ってから、じわじわと、真綿で首を締め付けるように行われます。

 また、「こんなひどいことをしている」と指摘したところで、半沢シリーズの銀行みたいに簡単に非を認めたりはしません。『絶望の裁判所』に詳しく記し、『ニッポンの裁判』でも第7章、第8章で触れたとおりです。知らぬ存ぜぬで「静寂の嵐」のような沈黙を押し通すだけです。これでは、たとえ半沢氏が裁判官だったとしても、リベンジなどおよそ無理ですね。

 小説の悪口を言うつもりは全くありませんが、半沢直樹の「倍返し」は、とってもわかりやすいが現実にはありえないファンタジーだということです。権力というのは、そんな甘いものではありません。それは、基本的には、どこの国でも、ことに大国ではいえることでしょう。ただ、司法やジャーナリズム、あるいは学者等の知識人がそれを厳しくチェックしている国と、日本のようにそうでない国とはあると思います。

 「あとがき」にも書きましたが、現在の世界でシステムに対する有効、先鋭な批判を行っている人々のかなりの部分が一度はシステムの中枢に近い部分にいた人々であることには、理由があると思います。権力というものが、もはや、古典的な一枚岩の単純な存在ではなくなっているのです。的確な批判は、相当の情報をもっていないと、また、客観的な視点や構造的な理解を対象に対してもっていないと、できにくくなってきている。

「55年体制」を未だに引きずっているような古い現状認識では、現代の権力の問題を解き明かすことはできません。それは、僕の知っているすぐれた学者、法律家、ジャーナリスト等の一致した見解です。日本における左翼の著しい退潮には、そういう背景があると思います。

特に政治、行政や司法に関心のない人々でも、無意識のうちに、そういうことはわかっているのだと思いますよ。

Q:竹﨑前最高裁長官等が敷いたといわれる思想統制と近年の司法の劣化はどの程度リンクしているとお考えですか?

瀬木:これは、『絶望の裁判所』に詳しく書き、『ニッポンの裁判』第7章でも裁判との関連からさらに掘り下げて分析したことですが、竹﨑前長官を含む刑事系トップの裁判官たち(もちろん、これに追随した民事系の人たちも相当いました)が行った思想統制や情実人事の傷跡は深いですね。

 民事系の裁判官だと、たとえば権力志向、官僚的支配で有名な矢口洪一長官のような人でさえ、ある限度はわきまえるということがありました。たとえば、情実人事はまあまあの規模にとどめ、若手については従来どおりの能力主義を変えない、といったことです。

 日本の裁判所は閉じられた絶対主義的ヒエラルキーの、世界に珍しい裁判所組織ですから、そうした部分まで汚してしまうと、あっという間に腐敗してしまいます。ある意味、戦後長い間、裁判所が、保守の砦とはなっても決定的な腐敗まではしなかったということには、評価すべき点もあるのです。また、矢口長官も、彼なりのヴィジョンと実際の行動の乖離という人間的な問題を抱えていたという側面はあるでしょう。

 しかし、2000年代の刑事系トップの人たち、そして、これに追随した民事系の人たちには、もはやそうしたものすらなくて、先のような方針を下まで貫徹してしまった。これは致命的です。僕が、2000年代の半ばすぎには、「もう転身するほかない。現在の状況は全体主義国家からの亡命待ちの知識人と変わらない」と決意したのは、そういう背景があってのことでした。

Q:『ニッポンの裁判』では、判例とともに裁判長の名前が挙げられていますね。判例雑誌ならいざ知らず、一般書ではこれまで例がないことでは? 裁判官たちは戦々恐々の状態になるのではないでしょうか?

『ニッポンの裁判』は、難解な判例を、法律の基礎知識のない一般読者でも理解できるように『複雑明快』に書いた力作。2015年を代表する新書の一冊となるだろう

瀬木:僕が、『ニッポンの裁判』で、具体的な検討を行った裁判および重要と思われる裁判については裁判長の氏名を記すことにしたのは、第3章以下の裁判分野別総合分析に先立って、第1章、第2章で論じたように、「価値」に関わる訴訟の裁判には、裁判官の総合的な人格が深く関係しているのを考慮してのことです。

 それに、裁判官がその良心と憲法を含む法律に従って下すべきものとされ(日本国憲法76条3項)、「公文書中の公文書」ともいわれる裁判については、それらを分析、批判する場合に、その判断につき国民、市民に対して責任を負う者の氏名が記されることが、本来、適切でもあり、必要でもあると思います。

 また、僕は、よい裁判はよいと分析し、まずまずの裁判はまずまずであると分析していて、客観的な評価に努めていますし、論理一貫性や法律の趣旨をも重視しています。また、僕が消極的な評価を行った判決についても、わずかではあるが、良識派として知られる裁判官(元学者を含む)が裁判長となっている例があることも事実です。僕自身、あらためて裁判の難しさを痛感させられました。


 瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)  一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。

 著書に、『絶望の裁判所』(講談社現代新書)、『リベラルアーツの学び方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、近刊)、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』、『民事訴訟実務・制度要論』(以上、日本評論社、最後のものは近刊)等多数の一般書・専門書のほか、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』、『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦

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多忙に付きブログを来月まで更新しません 
Friday, May 22, 2015, 11:26 PM
5/22 晴 22時 浅草の空間放射線量は29ベクレル/m^3

いろいろ書きたいことがあるのですが、今週と来週にかけて多忙でパソコンに向う暇がありません。来月まで更新を止めます。

とは言ってみたものの、更新しているかも・・・

店主
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Yahooに不正アクセス? Googleだって危ない 
Thursday, May 21, 2015, 06:39 AM
5/21 雷雨 6時 浅草での空間線量は28ベクレル/立法メートル

激しい雷雨で目が覚めてしまいました。寒い。
でも天気予報では今日は暑くなるそうです。

パソコンを点けて天気予報を見ようと、YahooにアクセスするとID<停止中>と標示されています。

なんのことかよくわかりませんが、どうやら有料オプションや通販が一切利用できないようです。

ヘルプを読むと、怪しいアクセスがあるために、一旦利用を制限しているということ。

はじめてログイン履歴というものを見てみると、そこには自分のパソコン以外に、スマートフォンやらタブレット、自分のIPアドレス以外からのアクセスが列挙されていました。

Webやメールを装ったログインの試みがなされていたことがわかりました。
Yahooはメールアドレスがそのまま初期設定ではIDとなりますからね。

フリーメールのアドレスはアンケートやメールマガジンで使っています

対策として、IDやパスワードの変更をしておきましたが、停止の解除には時間がかかりそうです。仕事ではYahooのサービスは使わないので実害はありませんけども、やはり不安ですし、信用が堕とされたようで気分が悪い。


みなさまもご注意下さい。
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「それから」に学ぶ「喰うために働くということは悪徳である」ということ 
Tuesday, May 19, 2015, 11:47 PM
5/19 晴 18時 浅草での空間線量は21ベクレル/立法メートル

近所の工事現場で大声でぼやいている年配の職人さんの話が面白いので聞き耳を立てていました。すでに定年で退職をして年金で暮らしているものの、人手不足でかつて働いていた会社でアルバイト(委託社員?)として駆り出されているのだとか。

そのぼやきと若手社員(新入社員?)の掛け合いは以下の通り

老「こうも安く毎日こき使われちゃあやってられねえなあ」
若「僕らも土日もないですよ」

老「よくまあ辞めないもんだなあ」
若「同期は辞めた奴が多いんですけどね。そうそう、この作業は大手の●●さんは機械を導入してやってるじゃないですか」

老「機械でやれば半分の人員で半分の日数で仕上がる仕事なんだけどなあ」
若「だったらウチも機械を導入してくださいヨォ」

老「ダメだ、ウチはぁ。一台いくらするか知ってるか、何百万円もするんだぞ」
若「でも、半分の日数と人足で仕上がるなら、導入したほうがいいんじゃないスか?」

老「おめえさん、この業界は何にもわかっちゃいねえな、食いっぱぐれている奴は一杯いるからさ」
若「手仕事でも熟練と素人じゃあ、仕上がりが違うでしょ」

老「一番安い機械は人手なんだよ、人でなんとかなるならそれで良し、ウチは昔からそういう体質さ」
若「・・・」


私も新入社員で働き始めた頃、先輩社員が終始不機嫌なので、若かったからその不満を訊ねたことがあります。
なんでそんなにつまらない態度なのかと。

「喰うためだよ、『働くことは辛いこと』にきまっておろーが!くだらんことを聞くな!」
その先輩の言葉に絶句しました。

労働=悪と捉えている一貫した態度に驚きました。そこには自己実現だとか、目的達成といった理念は一切ありません。
生活をするためだけに、出社して机に向っているという現実だけ。

上記の老若の職人の会話で25年前のことが思い出されました。

当時はまだパソコンやOA機器が充実していないので、売上を手作業で集計したり、一旦紙で打ち出されたものを再び集計するような二度手間があちこちで行われていました。

熟知していないとできないこともあって、ほとんど属人的な仕事ですが、仕事の意味としては会社の利益には関係ないことです。

上記の職人の仕事は、ボイラーの定期メンテナンスのようです。
高温・高圧になるボイラーは法定点検があり、定期的に検査が必要なので、それに従事している工員の会話です。

大小の違いはあれ、構造は似たり寄ったりで、その中に内視鏡や探査装置を突っ込んで、欠陥がないかを調べているのです。
そこで1人がボイラーの点検孔に貼り付いて、内視鏡や探査装置を指示されるままに差し込むというお仕事。もう一人は別室でモニターを覗いてあれこれ指示をだしています。

ところがリモートコントロール技術やロボット技術を使えば、2人一組ではなく、1人でもできるのです。
若手の不満は、単調な作業は大手は産業用ロボットがやっていて、自社は全く自動化の気運すらないということ。

そこにOB社員の現実的な言葉「この業界は機械よりも人手の方がコストが安いんだよ」

さらに、「喰うための仕事だから文句言わずに手を動かせ」と言われてました。
若者のモチベーションは上がりません。(25年前の若い私と同じ気持ち)

現代でも私の世代(団塊Jr、新人類世代)でも、喰うために働くという感覚よりも、自分のステップアップとして職業を選ぶ人が大半でしょう。

運が良ければ、会社で創意工夫の余地が認められて抜擢されるかもしれません。若いとオレも一目置かれる人物になってやると思うでしょう。

ところが、旧態依然を良しとするという超保守的な業界が日本においては大多数であるということにすぐ気づきます。
元コンピュータ屋であったので、20年前にOA化でお茶くみOLから部長・課長・ヒラすべてに批判されましたから。

便利になるし、すぐに確認できると説得しても、それじゃあ余った人手何をしてればいいのかと。

しったこっちゃねえよ!

要するに批判の理由はただ一つ、コピー以外に使い道のない女の子や算盤(そろばん)で集計する能力だけの営業所長や課長はどうするのかということ。失業したら可哀想だろという批判です。


朝日新聞には夏目漱石の「それから」がちょうど連載されています。

あらすじは主人公の長井大介という帝国大学を出ても就職することなく、実業家の父や兄に養ってもらって、引き籠もっている生活をしている若者の話。今日は同級生の平岡常次郎(失業中)からなぜ働かないのかと酔っぱらって絡まれている下りです。

「君は金(かね)に不自由しないから不可(いけ)ない。生活に困(こま)らないから、働(はた)らく気にならないんだ。要するに坊(ぼつ)ちやんだから、品(ひん)の好(い)い様なこと許(ばつ)かり云つてゐて、――」
 代助は少々平岡が小憎(こにくら)しくなつたので、突然中途で相手を遮(さへ)ぎつた。
「働(はた)らくのも可(い)いが、働(はた)らくなら、生活以上の働(はたらき)でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭(パン)を離れてゐる」
 平岡は不思議に不愉快な眼(め)をして、代助の顔(かほ)を窺(うかゞ)つた。さうして、
「何故(なぜ)」と聞(き)いた。
「何故(なぜ)つて、生活の為(た)めの労力は、労力の為(た)めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題(めいだい)見た様なものは分(わか)らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食(く)ふ為(た)めの職業は、誠実にや出来悪(にく)いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働(はた)らけるかも知れないが誠実には働(はた)らき悪(にく)いよ。食(く)ふ為(ため)の働(はた)らきと云ふと、つまり食(く)ふのと、働(はた)らくのと何方(どつち)が目的だと思ふ」
「無論食(く)ふ方さ」
「夫れ見給へ。食(く)ふ方が目的で働(はた)らく方が方便なら、食(く)ひ易(やす)い様に、働(はた)らき方(かた)を合(あは)せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働(はた)らいたつて、又どう働(はた)らいたつて、構はない、只麺麭(パン)が得られゝば好(い)いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何(ど)うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極(ごく)上品な例で説明してやらう。古臭(ふるくさ)い話(はなし)だが、ある本で斯(こ)んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵(こしら)へたものを食(く)つて見ると頗(すこぶ)る不味(まづ)かつたんで、大変小言(こごと)を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食(く)はして、叱(しか)られたものだから、其次(そのつぎ)からは二流もしくは三流の料理を主人(しゆじん)にあてがつて、始終褒(ほ)められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為(ため)に働らく事は抜目(ぬけめ)のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働(はた)らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様(さう)しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働(はた)らきでなくつちや、真面目(まじめ)な仕事は出来(でき)るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益(ます/\)遣(や)る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」


夏目漱石の風刺は現代でも鋭いといわざるえをえません。

喰うために働いていては一流の仕事はできない



私も25年前の社会人になりたての頃、普通に安月給でぴーぴーしてましたが、、安月給の会社で幅を効かせていたのは、社会勉強代わりに勤めている、地主の息子やどこぞの中小企業の跡取り達(笑)
同い年でも既に都心にマンション+新車スポーツカーと就職時から恵まれているのです。

仕事は自分のホビー(趣味)の1つと広言してはばかりません。
そりゃ食うに困らないからそりゃそうだ。

会社が購入しない機器を自分で購入して、会社で見せびらかしてました。損得勘定では馬鹿げた話です。

ただ「坊ちゃん社員」は私は嫌いでは無かったです。喰うために働いているのではないから、動機がピュア(純粋)なんですよね。
仕事自体が大好きで、そこから繋がる人脈こそが大事と考えているからです。

今日の職人の会話を聞きながら、同じ業種で同じ規模の会社があっても、中身は全く異なる会社があるということ。
それは入社してみないとわからないのです。

就職した会社の良し悪しなどはくじ引き程度のもの



イノベーションを産み出すことができるかできないかは、トップや経営者の考えです。
そして喰うためだけに存在している会社は社員も不幸です

たった数百万円の投資を若手に任せられないといった

「貧すれば鈍する」という社風の企業は社会悪だ



と思います。夏目漱石は106年前に、資本主義下の労働の問題を洞察していたのです。

だから私はベーシック・インカム制度はあんがい悪くないかもしれないと思っています。
だらしなく生きる奴はほっとけばいい。

改革、変革は食と住が満たされていなければ起こりえない



やる気のある奴の足を引っ張るだけの、若い人材を潰すだけの企業や経営者は退場すべきだと思うのです。


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TaxEaterとTaxPayerという人種が日本にはいるのです 
Monday, May 18, 2015, 10:36 PM
大阪市の解体・存続の住民投票はわずか1万票差で反対が勝ちました。
開票速報を見ていると生活保護+高齢化の区は解体反対、新規流入+若い世代の区は大阪市解体賛成と別れました。

大阪市はこれからもずっと貧乏で汚い街



結果ではこのままで良いという結果になりましたから、すべて存続です。

べつに東京に住んでいるので大阪のローカルな話題などどうでも良いのですが、土地勘があるのものですから興味深く、もっともエンターテイメントとして開票速報を眺めていました。

大阪市は関東で例えれば神奈川県川崎市のようなもの



川崎市は広い市なので、富士通といった大手企業の本社があったり、多摩川にかけてあこがれの高級住宅地もあれば、今朝もドヤが焼けて生活保護者がたくさん焼け出された地区というニュース(はっきり言って誰も気にも留めないけど)が混在する地域です。

マンションに囲まれたドヤ地区だということで、放火の疑いもあるのですが、川崎駅から外れた地区はソープランドの隣にホテルが建っていたり、ビジネスホテルを挟んでヤクザの事務所があるといったカオスな場所です。

地元の人にとっては「あーきれいになった」というぐらいしか思ってないの。(これホントに聞いたこと)

大阪市もまさにそれ。

淀川河口の区だけが大阪市解体反対の票が多く、他の区は均衡もしくは賛成票が多かった。

老齢世代、生活保護世帯が多い区は反対票だったのです。

一説によると、大阪市が解体されるとバスや地下鉄の無料パスの廃止や生活保護費が減額されるという懸念からだとか。

私も大阪出身なので、開票速報の地区が発表される度に、その住民の雰囲気が掴めます。

大阪市に他府県から流入が多い地区では賛成か均衡でしたが、大阪の人間でさえ「住みたくないなあ」という地区は見事に反対が多数でした。正直なところ嫌悪感しか感じませんでした。

大阪市解体反対はタックスイーター、賛成はタックスペイヤー



ようするに「社会のお荷物」だけが反対票を投じたと言うこと。

私は思うのですが、お先もない人たちに、端的に言えば税金を食い潰す人たち(公務員も含む)には、はたして投票権はあるべきなのでしょうか。

自分が生きている数年さえよければいいという結論しかないですから。もちろんこれも個々の合理的な選択です。

否決の速報を見て大阪市民は可哀想だなあ

なぜなら、税金を払う人たち(高所得者や企業法人)のお金が結局は景気対策や活性化に費やされることなく、大阪府と競業する大阪市役所の役人とヤクザな方々、生活保護者への支払いに消えて無くなるのですから。

私の感覚では、大阪市は名古屋はおろか、仙台の賑わいにも負けているような気がします。
もちろん同じ政令指定都市の横浜にも勝ってはいません。
どちらも歴史で出てくる場所もあれば、歓楽街もありますが、観光で訪れるのであれば横浜に軍配が上がります。

大阪市は(ついでに堺市も)面で観光するにはとてもつまらない。汚い景観に点在しているだけで、何度も訪れたいという人はいないでしょう。

なんとなく大阪に近い感覚は「さいたま市(浦和+大宮)」です



だサイタマ~(さいたま市民のみなさんごめんさない)

東京に住んでいると、大阪市なんて存在は大宮か川崎に近い存在です。

ヤクザと貧乏人、在日外国人ばかりが目立ちます。ここ浅草もそうですけど(爆)

違いは東京の水道水は旨いけど、大阪市の住民はこれからもずっと京都市民の屎尿処理水を飲み続ける事が決まったわけです。

大阪市民の皆さん、お身体をお大事に。
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浅草の三社祭 二日目 
Sunday, May 17, 2015, 01:18 PM
5/17 晴 10時 浅草での空間線量は17ベクレル/立法メートル

昨日は肌寒い曇り空でしたが、今日は暑いぐらいの快晴で、早朝からお囃子が鳴っています。家の前では本社神輿の前に太鼓が鳴り響き、部屋の中でも地響きしてきます。
近くで見ると身体にずんずん響きますよ。


11時に家の前を神輿が通ります。神輿は左右に練り歩くので建物からは出られません。
子供連れでの見物はあぶないので、建物の中や離れたどころからか後から見物することをお勧めします。道路の脇にいると担ぎ手が押し寄せてきますから。

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浅草の三社祭 
Saturday, May 16, 2015, 02:40 PM
5/16 曇 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル

今日明日と神輿があちこちで練り歩いています。
老若男女、法被にステテコ姿で決まってますね。今日は肌寒い天候なので熱気は今ひとつ。
明日は盛大に盛り上がるでしょう。


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大規模リコールで自動車会社の経営が傾くことはない理由 
Friday, May 15, 2015, 12:29 PM
5/15 晴 10時 浅草での空間線量は12ベクレル/立法メートル

以下、勝手な私の妄想です。自動車業界や市場といったものは全然わかりませんから、数字の意味だけを捉えた思考実験のつもりで読んでください。

ホンダとダイハツが2004~08年頃に生産販売された車両のリコールを199万台として14日に追加発表しました。これで二社は600万台、これまでの2000年以降の対象車を合わせると1960万台分となるそうです。

トヨタ、日産も2003年~08タカタ製エアバック装着車合計164万台を13日に国土交通省に届けています。ホンダのように訴訟が起きる前に対象車両を届けておく、いわば予防的措置です。

この年式は国内では3回目の車検を迎える頃ですから、中古で値段がつく間にうっぱらって新車の頭金にしようと考える頃です。10年落ち以降は人気車でもないかぎり、値段は付かず逆に処分料を払うことになりますから。

だいたい一回目(3年落ち)の車検時で購入価格の半額、二回目(5年落ち)で更に半額となりますが、人気の度合いやブランドで多少上下するようです。

7年落ちだと200万の車でも20万円程度です。これが下取り価格となり、ふたたび中古車市場で二、三倍程度の値札が付いて流通していきます。

もっとも私は中古車しか買ったことがないから、下取り価格などは気にしたことがないです(笑)
壊れないこと、維持費が安く修理がしやすいこと、玉が豊富であることという視点しかないです。それよりも東京ではレンタカーで十分です。

昨日、一昨日の自動車メーカーによるリコール台数の発表を読んで、200万台とか2000万台とかいう数字だけの感覚では、自動車メーカーは車を生産するよりも、修理交換で忙殺されるのではないか?という感覚になります。こりゃ経営に大打撃だろうなと普通は思うでしょう。

でも、対象の7年落ちの車が100万台が国内で走っていたとしましょう。そのうちディーラーに出して修理してもらう台数はいくらぐらいあるのでしょうか。
法人の所有車ならば間違いなく買い換えしてしまうでしょう。(新車の法定耐用年数は6年)
つまり5年を過ぎたら、翌年からは減価償却費を計上することができません。それなら買い換えたほうが支払う法人税面でもメリットがあります。

中古車屋では5年落ちあたりのリース切れ(法人所有の車)がよく並んでいるのはそういうことです。
逆に成金が中古のベンツを好むのも、中古車は減価償却期間が短いので節税効果が高いからと、リセールバリューが良いからです。

普通乗用車の平均使用年数は現在では12年程度、これは自動車登録検査協会という外郭団体が国内で新車登録から抹消された期間の平均値で、早い話がお釈迦になって鉄屑になったか海外に輸出されたまでの平均年数です。
参考URL:http://www.airia.or.jp/publish/statistics/trend.html

中古車雑誌のアンケート調査では1人の平均的な所有期間は8年程度という結果となっています。これは下取り価格が付く内に買い換えるという消費傾向があるからです。ですから平均的な自動車の一生は1人のユーザーが6~7割の期間を乗って、残りの3割~4割の期間を次のオーナーが使って廃車(屑鉄となるか輸出される)となります。

平均的な使用年数の標準偏差がわからないのでなんともいえませんが、車検期間2年を加えて14年超、16年超の自動車は9割以上は廃車されるでしょう。
なぜなら日本では

13年目以降の所有は自動車税が懲罰的に割増になるから



ですから2002年以前の自動車は国内では個人売買以外は流通もしません。スポーツカー愛好者が趣味で保有しているぐらいでしょう。(ラリーで人気を博したスバルインプレッサ、三菱ランサー、パジェロとかフェアレディーZなど)

2003年~2005年あたりの自動車は乗り換え(廃車)時期なので、この期間の車はエアバックのリコールを発表したとしても車検前に買い換えか廃車となるでしょう。ディーラーが下取った車は即屑鉄となるでしょう。修理するよりもコストがかからないから。

となると国内で登楼されている2000万台が対象となっていても、実際に工場で修理を受けるのは数割の個人所有者でしょう。
たとえば2000万台中、7割が個人所有として、さらに3割が10年超でも乗り続けるとしたら、2割の400万台です。
オーナーが何人も変わってディーラーが連絡を把握しているのはさらに少ないでしょうし、自分の車がリコール対象として修理にいく人がさてどれくらいの割合でいるでしょうか。

勝手に妄想して、2割(5人に1人)程度とすると80万台でしょう。それでも膨大な数ですが、国内の新車販売台数はざっくり普通車100万台、小型車100万台の計200万台程度ですから、なんとか順繰り修理はこなせるかもしれません。

でも私がセールスマンなら買い換えを勧めますね(笑)



「残価がほとんどない自動車を乗り続けるよりも、ローン利率が低く月々の支払いが少ないときに5年目か8年目に売払えば3割程度のキャッシュが戻ってくるのでトータル金額は変わらないか、逆に儲かっちゃいますよ・・・さらにウン十万値引きますから・・・」なんて囁けば、けっこうな割合で「それじゃあ新車に買い換えるか」となるでしょう。

となると6割ぐらいが買い換えてしまって、4割が修理対象で実際にエアバック交換となったとしたら30万台程度でしょうか。

2000万台中、実際にエアバック交換を受けるのは30万台(1.5%)程度



私が自動車メーカーの経営者なら、買い換え促進のスキームをつくるでしょうね。具体的にはゼロ金利ローン、大幅値引き、下取り価格の割増、一回目の車検代負担といったもの。

ですから200万台とか150万台のリコールといっても8年落ち、10年落ちのリコール対象車で工場に入るのは国内では5000台~1万台程度に過ぎないと言えます。

「災い転じて福となす」が自動車市場に押し寄せるだろう



今道路を走っている少なくとも80万台が半ば強制的に買い換えの対象となるのですから、経済効果は大きいです。
私が自動車の経営者かセールスマンだったら、千載一遇として買い換えの強化策を全面に押し出して、一気に占有率拡大を目指しますね。

『余剰の時代』において、消費の理由はどうでもでも良いのです。

古いのは危ないよ、怪我するよ、それよりも自動ブレーキ付きの新型車が安全安心ですよ



こう煽って買い換えのお得感を出せない経営者は無能です。
自動車会社、特にホンダの経営動向に注目しておきます。

株取引はやっていませんが、自動車部品メーカーのタカタは私は買いだと思います。
(追記:買残が大きく(売残の1.8倍)この貸借倍率が低くなるまでは買えませんね)

現在において乗用車はコモディティー(消費物)ですから、具合悪けりゃぶっ壊した方が景気対策になります。
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集団的自衛権とは軍事同盟下では当たり前の行動なのに 
Thursday, May 14, 2015, 10:05 AM
5/14 晴 12時 浅草での空間線量は10ベクレル/立法メートル

言葉を翻弄して煙に巻くことは日本の知識層・支配者層の得意芸でして、全く真逆なイメージを愚民に植え付けることに今まで成功しています。

自衛隊という欺瞞の名称を頂点に、日米軍事同盟を日米安全保障条約とソフトイメージにすげ替えたことが、防衛という重要な国家要件を国民、政治家がテンでバラバラに解釈することになったのです。

自衛権は国土・国民が他国より攻撃されたら反撃する権利で、これは国際社会、国連において認められている行為です。軍事同盟締結国間では、どちらかでも攻撃されたら同盟国が反撃するのも国際社会では常識的な行動とされてます。

ですから本来であれば北朝鮮が日本人を日本国内で拉致していったことに対して、日本政府は北朝鮮に対して軍事行動を通告しても国際的には非難される謂われはないにも関わらず、返せ返せと国内で騒ぐことぐらいしかしていなかった。

世論が騒ぐと、万景峰(マンギョンボン)号の寄航禁止、経済制裁と称して高級品の輸出禁止(誰が買うのか)と国内向けポーズに過ぎない態度でしか示さなかった。横田めぐみさんのご両親は切歯扼腕(せっしやくわん)の思いでしょう。

海外から見れば日本は自衛権の放棄までしてしまったのかと見られたとしても不思議ではない。

それが結果的に良かったのか悪かったことなのかは私にはわかりません。国家問題は個人の問題ではないからです。

弱虫・腰抜けを装うのも戦略上は大切なことだからです。

そして日本はアメリカの属国として国家意志を持たされることなく、存続してきたという現実があります。

在日米軍基地、とくに沖縄の米軍基地の撤退を求めるからには沖縄県知事はその後のロードマップを示さねばなりません。

軍事バランスの要である沖縄が独立してキューバのようにアメリカに刃を突きつける存在のように、中国をバックに日本と米国への攻撃拠点となりたいのでしょうか。

沖縄県民が米国に蹂躙されてきた怒りは私も理解します。が、その怒りの矛先は日本政府なのか?というと、それは違うでしょ。占領している米軍基地そのものに向けるしかない。
となると、軍事指導者を招いて

反対住民は武装蜂起して内戦で決着するしかない


結局は中国と米国の代理戦争が沖縄で起こることになるのです。

米軍基地の撤退を要求したら、そこが戦場となってしまうということ。最近ではフィリピン駐在の米軍撤退で南沙諸島に中国軍事基地ができてしまいました。紛争地域のリスクが高まりました。

沖縄だけではなく台湾だって軍事危機が高まりますし、臨戦態勢となるでしょう。

これが昨日の「合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)」という悲劇です。軍隊のない世界は良い世界と思っていたら、凄惨な世界になってしまうといった真逆の結果になるのです。

発電所や火葬場、ゴミ焼却場といったいわゆる迷惑施設全般でも言えることです。反対運動の結果、離散していっそう荒れた僻地に戻ってしまうだけ。成田空港なんて世界一不便で高い空港もそのようにして出来上がりました。

日米軍事同盟下での具体的な行動を明記した安全保障法制(安保法制)が本日成立します。

軍事同盟下において双方が契約内容を明確にするのは当然のこと



欧米は契約社会だと呆れる態度をとる日本人がいますが、いまでも法治国家における契約の概念が新聞の論調にさえ稀薄です。

昨日の小室直樹の数学講義の話のつづきですが、契約とは同意事項とそれ以外の集合概念しかないのです。

よく言われるようにプロスポーツやエンターテイメントビジネスでの契約条項は微に入り細に入りと、怪我から死亡の場合、移籍条件からスポンサーにまつわること、日常生活や家族のことまで記されているそうです。

だから代理人や弁護士を専属に雇ってチームと選手互いに守られているかを見届けなければならないのです。

逆に契約に明記されていなければ、何をしても問題はない。

松井秀喜選手がNYメッツのときには僚友のジータ選手の車に同乗させてもらっていたそうです。契約では球場までの移動は自動車を利用することと明記されており、たいていの選手は自家用車で球場に行っていたそうです。これは球団の危機管理の一環なのでしょう。

ところが松井選手は誰の車とは示されていないからよく相乗りさせてもらっていたのだとか。
高額年棒選手の二人が一台の車に乗ることは本来ならば条件の趣旨に外れているのですが、契約ではなんの問題もないとテレビで松井自身が語っていました。

安保法でリスクが高まる危惧は契約概念から逸脱した珍説



卵が先か鶏が先かという論争と同じ構図が、アカヒ新聞から漂っています。
軍事行動を明記したら、その未来が見えるとばかりに識者と呼ばれる人々が掻き立てて煽っています。

「戦争」という言葉があるから戦争になると頭から信じている「言霊信仰」そのものです。

松井やイチローといった大リーガーの契約書には故障や不振といった忌み嫌われる言葉までが列挙されているのが普通です。
移籍条件まであらかじめ示されているのも、あとで揉めないための布石です。

互いに起こりえる問題をあらかじめ想定しておくことは集合論に基づく契約では当然の行為。

それがなぜオカルト的な呪詛の文句のように捉えてしまうのか私には理解できません。

言霊信仰は土人の思考そのもの



リベラルな思想に感情論をまじえた言霊信仰の組合せは最低最悪な思考しか導き出されないと強く思います。

過去ログ:各国の我慢比べの様相がはっきりしたということ(衆院選総括)
争点にはならない原発問題 野党の多くは原発再稼働反対の実状
CSIS(戦略国際問題研究所)の設立母体はイエズス会であった
第一次世界大戦はなぜ起こったのか
リバータリアンはナショナリズム(民族主義)ではない!むしろ究極のリベラルである
韓国を捨てて北朝鮮を自営に引き入れることは理にかなう
中露「薩長同盟」VSアメリカ「幕府」という見方
政治中枢の怨霊信仰を知らなくては歴史はわからない
アメリカ国防総省の意見はこれ (食い違う国務省)
日本を動かす黒幕マイケル・J・グリーン 集団的自衛権とはずばり”日米軍事同盟”のことである
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数量化という概念が理解できていない人物の戯言は日本に悲劇的な結末を招く 
Wednesday, May 13, 2015, 06:24 PM
5/13 晴 12時 浅草での空間線量は9ベクレル/立法メートル

久しぶりに朝から通勤電車に乗りました。
上野駅が高崎線(東北本線)の途中駅になったので、横浜方面に行くのは乗り換えなくていいのはいいですね。
上野からは30分ちょっとで横浜にいくことができます。

電車もビルもクーラーが動いていて涼しくてついつい眠くなります。

電車の中で小室直樹「数学を使わない数学の講義」(ワック 2005年 1982年「超常識の方法」の再販)を読み終えました。
最終章が「数量化の意義」というタイトルの内容で、ある対象を数字を使って表わすことを考えついたことがどれだけ影響を及ぼし、また逆に判断の阻害になってきたのかが説明されています。

数量化とは、たとえば温度計や気圧計の目盛りであり、デカルトが位置を座標で表わす手段を発明したことで、ニュートンやライプニッツが微分積分を、さらには速度・加速度といった概念が生まれました。

そこから物理学の運動量やエネルギー、角速度、エントロピーといった概念が産み出されていきました。

普段の生活では温度は暑い、快適、寒い、すごく寒いと感覚的に表わしても支障はないはずです。
今日みたいな30℃の真夏日は誰もが暑いわけで、夏と同じぐらい暑いと言えば誰もが理解できます。

昨日の台風でも980ヘクトパスカルと言われるよりも、傘がさせないぐらいの風雨が夜半までつづきますと言われた方が実感が湧きます。

なのになんで身の回りの事象をわざわざ数量化するのでしょうか。

・・・学者が研究しやすいから・・・

それだけ(笑)小室直樹によれば

数量化は学者のための「作為の産物」です



社会科学においても同様に、国民所得などは経済学者が統計を駆使して産み出したものですし、知能指数は心理学者の発明品、偏差値なんてのも受験産業の発明品です。

数量化の意義とは
①A,B,Cの値を比較し序列(例:A>B>C)にすることができる(推移律が成り立つ)
②足したり引いたり割ったり掛けたりできる(四則演算)
③途切れることなくつづいている(連続性)

上記の3つの条件が揃って初めて「数量化できた」と言えるのです。

※知能指数100の人間が3人集まっても知能指数300になるわけではないので、知能指数は数量ではありません。また偏差値で受験生の序列ができないので数学的な意義はないのです。

小室直樹は数量化できない例として「美人度数」や「男性の精力指数」さらには「武道の段位」と「囲碁将棋の段位」といったものを挙げています。

数学的な解釈とは厳密に数量化されていなくてはならない


3条件を公理と言いますが、この3つの公理で19世紀末から解析学(微分積分)から物理学、統計学と裾野が広がっていったのだということです。

ところが、日本においては数学的な解釈を放棄した”日本独特の数量化”がまかり通っています。

代表的なものは入学試験であり、数学や英語などの合計点数で合格者数を選ぶというやり方は、きわめて数学的発想からは遠いものと指摘しています。

柔道5段+空手3段+将棋2段=合計10段と言っているような物

英語の点数と数学の点数と歴史の点数を合計しても、そこに何の意味もないということ。


物価指数やGNPははたして数学的な数値なのか?



社会学者でもある小室直樹は、国民生活の指標である物価指数やGNPにも懐疑的です。経済指標は数量化の定義に当てはまるかの検証が無い限り、眉唾であると指摘しています。

たとえば物価指数はいくつかの商品の市場価格の平均値を指しますが、ダイヤの値段と野菜の値段の合計平均としたら、
ダイヤ99円、野菜1円で物価指数50の場合とダイヤ50円、野菜50円で物価指数50の場合とでは、国民の生活感覚ではものすごい物価高に感じるでしょう。

GNPの国際比較においても、生活必需品は安いが工業製品が高い農業国と、家電や自動車といった工業製品は安いが食料品が高い工業国と単純にGNPの大小を比較しても、それはその国民の生活水準を示すものではないのです。

数量化における基準や座標軸が曖昧だからです。

もっと困ったことに、曖昧模糊な”日本独特の数量化”は数学的な基礎ともいえる集合論の理解を阻害していると小室直樹は指摘しているのです。

さきほどのGNPを例に取ると、「中国が日本のGNPを抜いて世界二位になった」という命題が掲げられたら、はたして

「中国人の生活水準が日本人を抜いた」「中国の全企業が日本の全企業の売上高を上回った」と言えるのでしょうか?

成り立つわけがないのは自明です。集合の全体と個々の要素(上記の例ならば生活水準や企業活動)にわたって成り立つ命題ではないということ。

国家という括りなのか、国民という括りなのかを集合概念で明確に区別しておかないと、理解や判断を誤ってしまう危険性があるということです。

これは社会科学で言う「合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)」(fallacy of composition)というジレンマが生じてしまうのです。

「合成の誤謬」とは個人個人が合理的な選択をしても、社会全体では合理的選択となるとは限らないということです。

たとえば、BよりAを好む、CよりBを好むという条件が成り立てば、A>B>Cとなり必ずCよりもAを好むことが成り立ちます。
ところがBよりAを好み、AよりもCを好み、CよりもBを好むといった三竦みの状態(A>B、C>A、B>C)では推移律が成り立たないので、合理的な選択をしたところで、結果は不合理なものに落ち着いてしまうことがあるということ。

選挙の比例代表制などはその良い例です。自民党は嫌いだけど、共産党と自民党を比べたら自民にするとかいった投票行動です。

社会学者の小室直樹らしい説明ですが、もっと簡単に言うと

投票行為とは『こっくりさん』遊びと一緒ということ



10年玉で三人が人差し指を押しつけると3人の意志とは全く関係ない方向へ動いてしまうというあの遊びです。
これが合成の誤謬。物理的に言えば「三方向のベクトル合成」ということ。

国民でも考え方や立場はそれぞれ違うし、政治家(政党)でも立ち位置はそれぞれです。ですからそれぞれが「合理的な選択」(rational choice)をしたところで、社会全体では不合理な社会となっても不思議ではないということ。

これをアローズ・ジレンマ(社会学者ケネス・ヨハネス・アロー:1972年ノーベル経済学賞)といいます。


社会科学者には、数学を知らない人たちが多いために、社会的要求とか社会的要請とかいう言葉を口にする際に、それが社会全体の要求、要請なのか、社会の個々の人間の要求、要請なのかということを明確に区別することがないと言ってよい。したがって、いつも何を言っているのか、その論旨がまるではっきりしない。

 もっともわかりやすい具体例としては、戦争のことが挙げられよう。この問題については、拙著『新戦争論』(光文社刊)で詳述したが、戦争とは、いうまでもなく国家間における戦いである。したがって、各個人がどうこうできるという性質のものではない。だから国民の一人ひとりはことごとく戦争を望んでいないとしても、国家自身が戦争を欲することはあり得る。

 つまり、「戦争をする」という行為は、国家の命題であって、個々人の命題ではない。日本には、それをまったく理解せず、一人ひとりが「平和、平和」と念仏のごとく唱え、祈っていれば、平和がくると信じ込んでいる、いわば平和念力主義者たちがあまりにも多い。

 私は、「戦争が国家の命題である」ということをわかっていないそうした人たちことが、偽りの平和論を煽り、国民に真に有効な安全保障の対策を立てさせない、まことに危険な存在だという立場から、あえて『新戦争論』の副題を「”平和主義者”が戦争を起こす」としたのである。

常識的な考え方では、皆がいい人になれば、社会全体がよくなり、また、すべての人が平和を欲すれば戦争は起こらない、という意見が正しく見えても不思議ではない。しかし、数学的論理に従ってきちんと検証してみれば、今述べたとおり、そんなものは嘘っぱちだということが、すぐにわかる。その意味でも、数学の論理というのはきわめて貴重なものなのである。また、さまざまなオピニオン・リーダーたちの一見まともに見える見解に惑わされることなく、社会現象の真の姿をとらえ、自分自身の判断をもちたいと思う人には、なくてはならない武器だといえよう。
(小室直樹「数学を使わない数学の講義」巻末から抜粋)


沖縄基地反対者の抗議活動、原発稼動反対論者、集団的自衛論、オスプレイ配備で騒ぎ・・・新聞やNHKが扇動的に報道するものほど、我々の個々の問題ではありません。

国家命題を個人で解決できると思うことは愚の骨頂



個人でできることは、米軍基地が嫌なら引っ越すとか、原発が嫌いなら自家発電で賄うといったことぐらいしかできませんし、そのような啓蒙運動をすることが独立した大人の思考です。

たんなるわがままを言い合っているだけならまだ許せますが、補償金のつり上げや騒乱で利を得る国家のエージェント、政治的な駆け引きとなどなど、

国家命題に喰い付く輩など碌な奴ではない



テレビで反対反対と騒動を起こしている人には同情もしなければ、近づきたくもありません。問題を大きくしているだけの張本人たちですから。

過去ログ:数学的思考の根源は「集合論」つまり仲間か仲間ではないかということ
近代思想は数学知識前提である「数学を使わない数学の講義」(小室直樹)
3分で読む小室直樹「新戦争論」(学問道場版)
小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(5)  国際社会と国家を理解することが真の平和主義
小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(4)  国連を国際社会と混同する文化的原因
小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(3) 国連の幻想と国境の思想
小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(2) 言葉を翻弄したことで文明史を曇らせた
小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(1) 平和主義者が戦争を引き起こす
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政令指定都市制度はそもそも市民の利益となったのか? 
Monday, May 11, 2015, 12:59 PM
5/11 晴 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル

個人的な橋下徹市長の好き嫌いは別として、関西出身者であるので政令指定都市制度について考えてみたいと思います。


まず最初に住んで痛感するのは、大阪という街はどこも景観が非情に悪いということ。

大阪市が別段住みよい地区というわけではなく、都市整備が大阪府全域でひどいと感じるのです。
これは神奈川にもあてはまって横浜とそれ以外ってな感覚と同じです。名古屋や埼玉、千葉でも似たようなものかな。

戦後あたりまでは周辺の田畑が市街地への供給を担っていました。それなりに中心と郊外の役割分担がされていたのです。
市営地下鉄が堺市まで延びたのは20数年前で、そこから先は別料金となります。
このようにほんの30、40年前までは「大阪市とそれ以外」という感覚が大阪府全体にあったのです。

ところが人口増にともない周辺自治体でも急速に都市開発が進んで、虫食い開発(スプロール現象)があちこちで興ります。
山林を潰した団地がニュータウンともてはやされて、膨張する人口が周辺地域に広がっていきました。

逆に大阪市内でも人口増に対応するために埋め立てや住宅建設を進めます。

質より量が優先された住宅整備がテンでバラバラに行われた



「じゃりんこチエ」(天王寺区茶臼山が舞台)の世界は私が住んでいた1980年代にはまだまだ面影が残っていました。

長屋が潰されて高層住宅となり、郊外ではため池が潰されて巨大団地となり、雑木林は大阪湾の埋め立てに使われ建て売り住宅地となりました。

右見ても左見ても同じような風景、殺風景な直線の道路、同じ形の家並みと癒やされる場所がどこにもない。

市内中心部は低所得層や高齢者が流入してスラム化していきます。阿倍野地区再開発状況は相変わらず。

JR大阪環状線や阪神高速環状線で一周してみてもらえば眼下には「腐海」(ナウシカで表現されている不毛地域)のような風景(笑)
かたや郊外は巨大な団地群が乱立している。

さらに交通網や道路整備、商業地域がバラバラに独立しているから不便です。
東京以外の地方都市は自動車がないと生活が成り立たないことを私はずっと懸念してます。

自動車が普及していない頃なら大阪市内中心の行政と大阪府全域で取り組むインフラ整備はそれでよかったのです。
大阪市は主に住居や社会インフラ整備、郊外は農業用地整備といった生産活動のためと違う目的があったのですから。

ところが産業構造の変化で工業化が進むと、政令指定都市が逆に足かせとなっています。

具体的には大阪湾内の海岸線は無惨にも埋め立てられて工業用地となっていますが、大阪市と大阪府が別々に埋め立て事業をやっているわけです。

淀川河口一帯は大阪市、そこ以外は大阪府の事業といった具合に別々に埋め立てて誘致してます。とくに南港地区(大阪市)は最悪なことに機能分離していないので、国と第三セクター、大阪市港湾局が入り乱れた乱脈さ。大阪市民もあきれかえってます。

とうぜん大阪市も大阪府の三セクも赤字を垂れ流してます。
言うまでもなく埋め立てはヤクザのシノギです。

都市整備に金を回さずに、どぶ川の脇を汚いダンプカーが行き交う風景が大阪市の日常風景(笑)

大阪市民は大阪市役所に恨み骨髄



バス運転手や給食のおばちゃんの高給がとりだたされていましたが、あんなのは氷山の一角です。

悪しき前例は周辺の自治体にも波及するので、どこもヤクザな土建屋が我が物顔で闊歩することになります。

ちなみに日本で一番自治体職員の給与が高いのは大阪府の富田林(とんだばなし)市でした。(25年前のお話)
産業って何もないところで、有名なのはPL学園しかない(笑)
ダイハツミゼット(三輪車)のバキュームカーが葛城山を走ってました。

上下水道が整備されていない頃(いまでもそうかも)は、糞ガキをもつ地元の親は富田林の水道局員にさせたがっていました。

大阪の水道事業も大阪府と大阪市では別々です



大阪市民は琵琶湖から京都の下水処理場から流れる水を、淀川で汲んでふたたび飲むしかない。
だから大阪市内の水はクソ不味いです。

雑居ビルの給湯室で水道をひねったらカビ臭でフロア全体が臭くなりました(25年前)

六城ラヂウムの源憘珠(げんきだま)を入れておけば塩素やカビ臭はなくなります

大阪は山脈に囲まれているので大阪市以外は水は美味いのです。東京の水道もまずまずですけど、大阪市以外の水道は美味しいです。
これは南大阪に住んでいて一番良いことです。

政令都市制度による二重行政は大阪市民の健康さえ蝕んでいる



箱物で似たような施設があるなんてことは些細なことで、問題の根源はお手盛り行政があちこちでされていて、広域で統一されていないことなのです。

これは愛知県(名古屋市)や神奈川県(横浜市・川崎市)、埼玉県(旧浦和・大宮市)、千葉県(千葉市)などなどでも周辺地域は虫食い開発で国土(田畑や森林)はズタズタのボロボロです。

人の質も推して知るべし。

政令都市制度とは、戦後に行政機能の人手不足を賄うために、省庁の都合で中自治体へ業務を押しつけるための「政府の命令」です。見返りに予算執行も任せた経緯があり、そこには暮らしを良くするとか、税金の適切な使途といった観点は一切ないです。

少子高齢化では政令都市制度は百害あって一利もない


と私は考えています。

ちなみに先月大阪の同級生らと会いましたが、みんな東京都内、近郊に家を買ってます。大阪に戻る気なんて誰もないみたい(笑)

私は東京並とは望みませんが、住みやすい大阪になって欲しいと切に望んでいます。

そのきっかけに行政単位をもっと広域、さらには圏といったマクロで行う議論が生まれればいいと思うのです。

京都市民の下水を飲んで暮らしている大阪市民は、ほんとにこのままでいいのかな。
過去ログ:明治に入ったのは西洋技術とそして神学論だった
人口減少下では政令都市などいらない (大阪府「都」構想は賛成)
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祭り・神輿の時期になりました 
Sunday, May 10, 2015, 07:38 PM

神保町に散歩がてら出てみました。

ところが今日は神田明神のお祭りで、秋葉原の神田明神を中心に路地では神輿や山車がたくさん出ています。交通規制だらけです。

今週末から浅草も三社祭となるので、街中がそわそわし出しています。

普段よりも秋葉原の歩行者天国は平均年齢が高かったです。お祭り好きには待望の一週間なんだとか。


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自分の母をいい歳こいてお母さんと言うのはスレッカラシに決まってます 
Sunday, May 10, 2015, 07:20 PM
5/10 晴 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル

今日は母の日なんだそうで、ラジオを点けているとゲストとのトークがなんでも母親についての話題でした。

気になるのが、いい歳こいた大人20代30代が自分の親を「おかあさんがぁ~」「おかあさんはぁ~」と得意げに話しているのです。

聞き手側も「お母様は・・・」と受けずに「○○さんのおかあさんはぁ~」と相づちをいれています。

民放だから仕方がないのでしょう。

バカの話を聞いてもバカになるだけ



他人に対して自分の母親をおかあさんと呼ぶのは小学生あたりまでだろ~?

私が中年だからでしょうか、パープリンのテレビタレントが締まりのない話を垂れ流していても気にはしませんが、ラジオの司会者までもが「おかあさん」を連発してるとチャンネルを変えてしまいます。

さきほども平原綾香さんという歌声がきれいな歌手のラジオに聞き耳を立てていたら母の日の想い出話で、手料理の話でした。
お母さんの料理がぁ~とおかあさんを連発されていて、誰の親の話なのか一瞬わかりませんでした。お母さんと呼ばれているスタッフの話なのかと思っていたら、どう考えても実の親の話らしい。

独身30過ぎで母親と仲がよいということを伝えたいのでしょうか?なんじゃそりゃ?

今はお友達感覚の仲の良さが親子の理想なのか?



女の世界だからほっとけば良いのでしょうが、昨日の男性司会者までもが自分の母親をおかあさんと呼んでいたのは反吐が出ました。

思春期を過ぎて独り立ちしたらオヤジ・オフクロ(女性はチチ・ハハ)が普通の感覚です。
私は関西の河内地方に住んでいたので、「おとん」「おかん」がけっこうトウが立った年齢でも使われていました。(今もかな?)

気色悪い言葉です。

「ワレんとこのオカンよぉ」
なんて言われたら、自分の母親のことかと思っていたら、話し手の母だったなんてこともあります。これは河内弁が二人称(You)が欠落した疑似日本語なんで、人を指すのはすべて「ワレ」「オレ」といった一人称しかないという欠陥だからです。

商人言葉の大阪弁だと敬称で「~はん」が付くので、話し相手の母親でしたら「おかぁはん」となって区別できるのですがね。こっちは少し進歩している(笑)

話が脱線しましたが、

どっちみち

他人に自分の母親をオカアサンと言う女はスレッカラシ


と昔から相場が決まってます。

スレッカラシとは場末の酒場、歓楽街にしかいられない世擦れしただけの頭の弱い人と言う意味。

テレビを観ると頭が悪くなると言ったのは大宅壮一(おおやそういち)ですが、ラジオを聞いても頭が悪くなる時代になりました。

ゆとり世代なのか、教える教育者側なのかはわかりませんが、日本語が乱れているのではなく、リベラル的を装うことが良いことのように勘違いしているのかも知れません。

言葉遣いが一番簡単確実な「馬鹿発見手段」だからこれはこれでいいか(笑)
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なぜ小猿にシャーロットと名付けると不敬にあたるのか(日本人の言霊信仰) 
Saturday, May 9, 2015, 02:42 PM
5/9 曇 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル

群馬大分県高崎山動物園で初めて生まれた小猿にシャーロットと名付けたことで英国王室に不敬だという物議が世界的なニュースにまでなって、英国王室が声明を発表するにまで至りました。

こういう騒動は日本の風物詩なのかもしれません。あきれて見ていました。

欧米人は一般的には聖書の登場人物やギリシャ神話から名付けますからバリエーションって日本人の感覚では少ない。
マイケルだってミカエルやミヒャエルと言語によって発音が違うだけ。ヘブライ語ではヤコブもドイツ語ではヨハンで英語圏ではジョンになってしまう。

高校生のときにアメリカ交換留学生に聞いた私の名前の印象は、口を尖らせてグニュグニュいうしかできず、魚の学術名みたいだということ。さらに想像を膨らませて「ツナ缶」なんだとか(笑)

よく聞く話で米国へ留学したら、まずは呼び名をトムやジョンなどと自分で決めなくてはならないそうです。
次郎(二郎)はジョンと欧米では半ば自動的に命名されるからいいですねえ。

日本名はローマ字表記でも欧米人は全く読めないので、私は海外通販ではやりとりが必要な場合はAlex(アレックス)を使ってます。
ラテン語アレキサンダーの短縮形ですね。

話を戻して、なんでかわいい猿の命名で不敬にあたると捉えるのか、その思考の根源が言霊信仰だからでしょう。

神話時代からつづく呪術をいまだに多くの人が信じている証のようです。

言葉に魂が宿るという考えは皇族に対するものから大本営発表報道、官僚によるプロパガンダに至るまでいまでも幅広く用いられてきました。

江戸時代は固有名を口にすることは最大の失礼と考えられてきた



勝海舟が安房守(あわのかみ)と呼ばれたように、役職名のみで呼びかけることが公家・武家でのマナーです。
「お天道様が見ている」と使われる言い回しですが、このお天道様は太陽ではなく、江戸時代は徳川将軍の暗喩でしたし、天子様などと天皇は呼ばれていました。将軍や天皇などと言ったら不敬な奴とみなされてしまったでしょう。

いまでも社長とか先生と立場だけで呼んだり、おとうさんとかおかあさんと呼びかけるのが無難だと日本の誰もが感じています。

大昔から固有名で呼び合うと、もしその流れで不吉な言葉(穢れ)が混ざってしまうと、相手が穢れてしまうという日本人だけ(?)の無意識の行動です。

たとえば死ぬ、血、苦しむ、落ちる、切れるといった暗い語感がある言葉が混ざると、誤って呪詛となってしまうかもしれないという怯えから固有名は慎むことが日本人の美徳であったのです。
今回も同じロジックで

猿=下等な生き物 + 高貴な人の名前 = 英国王室を貶める呪縛

このように脳内変換してしまった人々がお節介なことに騒ぎ立てるのでしょう。

日本人どうしの美徳なのでそれは構わないと思うのですが、イギリス王室にまで気を遣うことはないと思うのです。

日本の言霊信仰など他国に理解されるわけないですから



いや、スピリチュアリズムが大好きな同種の人たちは一定数世界にはいますね。

ジョンレノンのimagine(イマジン)を謳いながらオスプレイだぁ~原発だぁ~辺野古基地だぁ~と念仏教のように練り歩く人たち・・・

脳内をお花畑にしておけば世界がよくなるという、類人猿へ退化した人たち。

私は言霊信仰は人間の退化現象だと思います。もしくは元々から脳に欠陥がある人達なのでしょう。

あっ、ジョンレノンって私は大嫌いです。ハッパでらリるヒッピー文化の人としか見てません。
それでもラリラリパーがまだまだ世の中にはいるんだよなあ。平和っていいですね(棒)

過去ログ:「Let it be」も「Let it go」も大大大嫌いです
ジョンレノンが嫌いって人、結構いますよね 現実感のない「ラブ&ピース」病
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コンピュータ化されたクルマには整備用バックドアがついている 
Friday, May 8, 2015, 01:30 PM
5/8 晴 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル

今朝早く目が冷めてしまったので時計替わりにテレビをつけてみました。
ちょうどトヨタの高級SUV、ランドクルーザー(800万円)がいとも簡単にブラジル人窃盗団に盗まれたという顛末が放送されていました。

自宅一階の駐車場に入れて、二階で寝て、朝起きてみると停めたクルマが消えていたと持ち主は茫然としていました。
とうぜん人気高級車であることは承知で、盗難防止装置もついた最新のクルマです。

盗難防止装置とは持ち主の鍵以外ではエンジンがかからない装置(イモビライザー)で、コンピュータ化されたクルマでは一番効果的な盗難対策だと考えられていました。

ところが後日窃盗団が捕まって、押収された道具には盗難防止装置を無効にしてエンジンをかけられる装置があったとのこと。

ハッキングできるほどデバイスに精通した物盗りなのだろうと見ていたら、な、な、なんと!通販で誰でも買える装置なのだとか。

本来は整備工場で故障原因を探るための装置なのですが、国産車、外車問わずほとんどの車種で鍵不要でエンジンを始動させることが可能なのだそうです。

使い方は簡単、どっかにある整備用の端子口に装置のコードを差し込んで、画面から車種名を選ぶだけ。
実際に整備工場で操作を紹介してました。

市販されている解除装置は整備用をコピーした海賊品です。中国の販売元ではどのように使っているかは把握していないとのこと、そりゃそうだ。窃盗道具だなんて言えないモンね。

窃盗団をとっつかまえた警察署では、盗難対策としてはハンドルを鉄棒で固定する器具の利用や照明の設置、警報装置の二重化を勧めていました。

つまりほとんどの高級車が装備している防犯装置は役に立たないとのこと。

なんじゃそりゃ(笑)

これほど消費者を馬鹿にした話はないです。

盗難防止装置のコストも消費者が負担していながら、流通や整備の都合でバックドア(裏口)の入り方を公開していたのです。

最高機密が街の整備屋も当たり前のように知っていることってどういう事でしょう。

おまけにワンタッチでドアロック解除からエンジン始動までできるのであれば、泥棒に持ってって下さいとアピールしているような物です。

昔はエンジンを鍵で使わずにかけようとしたら、ハンドルの下に潜り込んでコンソールの間からコードを引き抜いて繋ぎなおすなど面倒なことをやらねばなりませんでした。オートバイでさえ数十分はかかった(自分のオートバイで試したことがあります)

そんな泥棒のためにあるような装置なら付いてない方がよほどいいのではないでしょうか。

損害保険会社は改善を求めたという話も聞きません。

結局どんな高級車であっても自動車メーカーからすれば大量生産される消費物(コモディティ:commodity)にすぎないということ。

私は自動車は道具としか見ていませんから、ベンツやレクサスよりもハイエースや軽トラが欲しいです。
ハイエースも盗難車の上位ですね。日本製の四駆とバン、トラックは途上国では大人気ですから。

鎖と鉄棒が一番効果的ですし、実用車はかえってかっこいいです。
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カトリックとプロテスタント、どちらが原理主義(またはカルト)に陥りやすいでしょうか? 
Thursday, May 7, 2015, 04:03 PM
5/7 晴 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル

昨日につづいて長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」から引用します。

ドイツのプロテスタント派では旧約聖書を聖典から外す議論がなされているのだとか。

天地創造からモーセのエグゾダス(exodus)、そしてユダヤ民族の物語あたりを現代科学の見地からも、民族主義的な視点からも不適当な内容だと言うこと。

弟子達によるイエスの見聞をまとめた新約聖書だけでキリスト教は十分だという主張です。

イエスの再臨を信じ、その前に来る審判の日(世界の終り:終末論)に備えよという考えがキリスト教で、プロテスタントはマルティン・ルターが法皇と教会の権力(利権)に抗議(Protest)したことから生まれた流派です。

神(God:天地創造主)の存在は信じるが、それ以外は自分には関係ないね。神とキリストと精霊(人間の清い魂)を拠り所とする一般的な解釈よりも、神と自分の立場を重視する考えをユニテリアニズムと言います。

ユニテリアニズムはキリスト教からユダヤ教の原点回帰的な性格を持っており、エゴイズム(自己中心)的な解釈でもあります。

なんども書いていますが、近代文明はユニテリアニズムによって発展したのです。

中世ヨーロッパ、イタリア・メディチ家のルネサンス運動(芸術復興)モーツアルト、物理学ではニュートン、ライプニッツ、オイラー・・・天才数学者達が新境地で花咲いていったのは厳しい宗教的規律から解放されたからなのです。

ただし多くは保守層から迫害されてイギリスのヨーロッパ北部オランダのプロテスタントは新天地のアメリカへ渡っていったということになっています。清教徒(ピューリタン)と呼ばれるプロテスタント教徒は実際はユダヤ人(ユダヤ教徒)でした。

アメリカに渡った開拓民は土着のキリスト教を生み出していきます。ユニテリアニズムの中ではたとえばクエーカー教と呼ばれるものは、教会もなく聖書解釈に費やすことのみ。福音派は新旧聖書の解釈を拠り所とした原理主義的な性格です。

日本には幕末にオランダ、中国(清国)を経由してユニテリアニズムが西洋科学・西洋哲学として入ってきています。
江戸幕府でも海外研究は行われていたことは案外知られていません。

ここらへんまでは私のつたない知識です。

過去ログ:日本のユニテリアン(覚醒日本人) 徳富蘇峰(とくとみそほう)
我々は音楽で潜在的にキリスト教の洗脳を受けているのです
プロテスタントが社会主義思想を広めた(「人間内村鑑三の探求」畔上道雄著)
幕末・明治のゲーテッド・コミュニティー (麻布・高輪・三田)
結局、新島襄は日本のキリスト教徒らに影響を及ぼしたのか?


長谷川良氏(ウィーン在住、国連担当記者)のブログではドイツの神学者は減り続けるプロテスタント教徒の原因は旧約聖書にありということで、旧約聖書をプロテスタントの教典から外すことを主張しているということ。

ユダヤ民族の選民思想をなんでわざわざ教えこまにゃあならんのだということ。
しかし、もし旧約聖書を割愛してイエス・キリストの誕生あたりから物語を始めたらストーリー性が大きく欠損してしまうでしょう。

となると本来の聖書の性格から遠ざかったイエスの再臨だけを祈る宗教になっていきます。

浅草には教会がけっこうあります。その多くが日本基督教団系となっています。つまりプロテスタントです。シリアで殺害された後藤健二氏が熱心な信者であったということで最近はよく知られました。

浅草の教会の牧師の名前が表札に掲げてありますけども、金(キム)とか朴(パク)とか韓国系の名前ばかりです。

統一教会とは関係はないのでしょうけども、韓国はプロテスタント教徒が多いので必然的に在日韓国人が多い地域では牧師も韓国系になってしまうのでしょう。

どうやらヨーロッパではプロテスタントは自滅しつつある



バチカンの教皇を中心としたカトリックのネットワークと異なり、プロテスタントは聖書主義で内村鑑三が唱えたのは教会さえもいらないという主張でした。だからプロテスタント系キリスト教団ってのはまとまることはなく、分裂していくのみという宿命をもっているのです。

だから強烈な(天才的な)詐欺師がうまれるとキリスト教の格好だけしたカルトが出来上がることもある。

長谷川良氏によるとドイツのプロテスタント派では信徒が減少して教会の社会的影響の低下しつつあります。
であるならば、これから旧約聖書を無視した宗派(新興宗教)が生まれる素地もできつつあるように思います。

アメリカが覇権国から滑り落ちつつあることもプロテスタントの世界的な不人気とは無関係ではないように思えてきます。(もしもドイツ神学者がいうように信者が減少しているのならば)

アメリカの外面はリベラルであっても内情は韓国と似たり寄ったりのエゴイズムが幅を効かす国で、これが日本の外交を狂わせてきました。

世界がアメリカ・ヨーロッパ発のユニテリアニズムに飽き飽きしているのかもしれません。
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私は憐れむことには飽きた (旧約聖書エレミヤ書15章6節) 
Wednesday, May 6, 2015, 12:02 PM
5/6 晴 10時 浅草での空間線量は17ベクレル/立法メートル

長谷川良氏という国連記者の「ウィーン発『コンフィデンシャル』」というブログをよく読んでいます。
理由はいくつかありますが

・国連常駐記者の視点から国連内部の状況がよくわかる
・筆者の宗教史観(主にユダヤ教、カトリックの知識)が副島隆彦先生と共通している
・オーストリアから日本をみた外人感覚による指摘

などが挙げられます。

言論プラットフォーム「アゴラ」にも転載されていつも人気記事です。

タイトルをそのまま頂戴しました。
預言者エレミアはユダヤ人たちが異教の偶像崇拝へと堕落していく姿を見て発した言葉です。

長谷川良氏は4月25日のブログで「同性婚」支持者に対しても批判をしております。
http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52102235.html

欧州ではバイセクシャルに関して長く議論されてきた歴史があり、同性婚が認知された現状はキリスト教文化(おそらくカトリック系)の崩壊だと指摘しています。

ジェンダーフリーは性差を差別であるとすり替えた共産思想そのもの



生物学的な区別を全くなくして「同等」として扱えという論理はスターリンや毛沢東が実践した考えと変わらないじゃないかということ。

 「差別」という用語は本来、社会学用語だ。「性差」の区別を「差別」と受け取るジェンダー・フリーの人々がその「差別」を撤回するために社会運動に乗り出すのは当然だろう。「差別」は社会によってもたらされた現象と考えるからだ。フランスの実存主義者シモーヌ・ボーヴォワールはその著書「第2の性」の中で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と書いているが、それに通じる考えだ。

 もちろん、ジェンダー・フリーの人々も「性差」が生物的に選択の余地なく、否定できないという認識はあるが、その「性差」による社会的区別は「差別」であり、「悪」と受け取るから、独裁下の弾圧に反対するように、その撤廃のために様々な社会運動を行う。

 問題は次だ。「性差」の区別からもたらされた「差別」を撤回しようと腐心するあまり、「性差」と「差別」が引っ付き、「性差」まで「悪」のように考えてしまう傾向が見られることだ。「性差」も「差別」と考えれば、それを撤回しなければならない。その思考の延長線上に同性婚容認の動きが出てくる。

 「性差」は「差別」ではない。「性差」は生物学的に厳に存在する事実だ。「世界人権宣言」を想起するまでもなく、「性差」に関係なく、男も女も人間としての価値は等しい。「性差」には価値の「差別」はない。あるとすれば、「性差」による社会的、経済的、生物的な「位置」の違いだろう。そして、位置の違いは「差別」ではないのだ。

 ジェンダー・フリーを主張する人々が「価値」の平等だけではなく、「位置」の平等まで要求すれば、問題が生じてくる。なぜならば、全ての人が同じ位置を占めることはできないからだ。簡単な例を挙げてみる。体力の弱い女性に「位置」の平等を訴えて、強靭な体力を要する仕事を課せば、「性差」の撤回どころか、人権蹂躙で訴えられるだろう。一般的に考えてみる。会社で社長という位置に部長が「位置」の平等を訴えて反旗を翻せば、会社は経営できなくなるだろう。
 「位置」の平等はその組織、そして人間の存続を脅かす。同性婚が世界の過半数を占めた場合、人類は果たして存続できるだろうか。「主体」が存在すれば、本来、必然的に「対象」が生まれてくる。そして「主体」と「対象」が円満な関係を構築できれば、両者は作用し、存続し、繁栄できる。その「主体」と「対象」の関係を、対立、搾取・差別の関係と考える思考の背後には、共産主義思想の残滓がある。


上記の記述からは、ボーヴォワールが始めたフェミニズム運動のそもそもの出発点は

無神論者による理神論者たちへの象徴的な攻撃的性格を持っている


ことがわかります。

リベラル運動がプロテスタンティズムから派生し、ヴォルテールが批難する「平等主義」を掲げる共産主義思想と融合した結果が1960年代あたりから始まったフェミニズム運動へとつながっていったのでしょう。(ボーヴォワール「第2の性」は1949年刊行)

ゴッド(GOD:森羅万象の創造主)を信じずに目の前の偶像を拝むユダヤ人に対してエレミヤが嘆いたあたりから、ユダヤ人の長い捕囚の歴史が始まったのです。

性の解放だとか性差の撤廃だとかいう流れはユダヤ教(含キリスト教文化)への用意周到な破壊活動なのです。
だから必ず作用反作用の関係で宗教規律の厳格化を求める声も高まります。その象徴がイスラム教の過激主義者たちです。

憐憫(れんびん)の感情は人間持ち合わせておかなければならないものだと思うのですが、それを振りかざして社会運動にまでしてしまうことは、無政府主義(アナキズム)、反政府活動に転嫁してしまう可能性が高いのです。

だから私は無関心を装います。

内閣府(旧総理府)の男女共同参画局ってのは左翼のガス抜き程度の役割でちょうどいいのです。
こんなことは官僚丸投げにしてグズグズの役人仕事でいいのです。

少子化対策局と男女共同参画局が同居しているというブラックジョーク


(ボーヴォワールは結婚制度を否定し、女は子供を産むなと主張している)

ヨーロッパが衰退するか日本が先に消え去るか、あと50年もしたらはっきりするでしょう。そんときまで生きてはいないからどうでもいいや。

ただ今の気分はあたかも自分たちが被害者面して崇拝対象をもとめている群衆の姿をみるにつけ
私も憐れむことには飽きてきました。
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憲法改正は賛成です、ただし読みやすく簡潔である前提で 
Monday, May 4, 2015, 12:54 PM
5/4 晴 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル

昨日は憲法記念日ということで右翼の街宣車から政党の車が走り回ってました。
9条9条や戦争反対と意味のないことを繰り返しています。なぜならばそれは勝手な都合の良い解釈であって、当然別の解釈をする立場もあるからです。

私は憲法改正は大賛成です。
一度発布されたら一字一句書き換えたらならぬというものではないはずです。
海外では実状にあわせて少しづつ改編されたり条項が追加されるのが普通と言うこと。

戦後は憲法が神格化されたにすぎない



九条や戦争反対を唱えれば世界に紛争はおきないという妄信者たちはカルト集団にしかみえません。
騒音だけは勘弁してもらいたいもんです。

天皇陛下を過剰に神格化したから太平洋戦争に突入したという単純な思考しかできないのかな。
それならば憲法を異常に神格化して触れてはならぬもののように扱っている護憲派とよばれる人々も同じムジナです。

改正の論議ができないのは民主主義の否定



現在の憲法には読みにくくて解釈次第で何通りもの判断ができるという重大な欠陥があることを常々異常なことだと思っています。

裁判官によって判断がわかれるような代物をなんで代々有り難がるのでしょうか。
江戸時代からなんでも「玉」として崇めるメンタリティは変わっていないことの証左です。

形だけは三審制を取り入れても、憲法判断をする最高裁は憲法本来の理念からほど遠い判例を連発してしまい、結局は我々の「権利」「平等」が侵されていることになるのです。

憲法を毎年にでも改正して、国民誰もがすっきり納得できるようにするのが、正しい憲法学者や知識人の役割なのではないでしょうか。

数学的思考が日本には決定的に欠如しているからこうなる



大江健三郎なんて知識人でも文化人でもなんでもありません。くだらない耄碌ジジイです。

過去ログ:一票の”格差”が半世紀以上も放置されつづけているわけ
数学的思考の根源は「集合論」つまり仲間か仲間ではないかということ
ユーロ圏にみるグローバル経済化の悲哀とそれに続く日本の未来
日本は遵法という概念が稀薄だから違憲「状態」と茶を濁す
国会決議は有権者の25%程度で決議されるという憲法違反状態です
現行の多数決制度に反対の声を上げるのがこれからの正しい左翼です
選挙区制を廃止して余命別選挙制度!?そりゃ良いアイデアだ。
違憲状態のブタ首相は自爆しましたとさ
私の一票の価値は衆議院0.53参議院0.23でした
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