雨が降っているから売れないとは本当か? 長時間勤務を強要する社会を憎む 
Saturday, July 4, 2015, 12:06 PM
7/4 曇 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル

雨降りが続いています。
昨日は昼過ぎまで激しい雨で、千葉市の一部では冠水したり地下街は浸水したところがあったそうです。

そんな天候ですから、駅から離れたショッピングセンターに人が流れてくるわけがない。
実際歩いてみたら、膝下までずぶ濡れになりました。

案の定ほとんどが開店休業状態です。

商売は立地なのだなあと実感します。鉄道会社が駅を商業施設に建て替えしているのもうなずけます。
ところが駅周辺の小売業にとっては大きなマイナスです。

駅舎の商業ビル化で周辺部の経済圏が一気に縮小してしまう



良い例がスカイツリーの大きな商業施設があります。
スカイツリーの観光客が周囲の商店街にも人が流れてくることを期待して、足元の商店街は開業当時はお祭りムードでした。

もう4年近くが経ってどうなったでしょうか。

よけい寂れてます(笑)歓迎ムードはどこへやら。

とくに天候によって便利な立地と不便な場所とでは雲泥の差ができるのは誰もがわかることです。

政府発表の自画自賛な経済指標のこじつけで、天候不順が消費の伸びない理由だと繰り返し説明されてきました。

こんなのは中国共産党なみな理由にもならない理由であることには皆さんも呆れて怒っているでしょう。

景気が悪いのは緊縮財政と消費税であることを責任転嫁する財務省



まさか本当に天気が悪いから景気がよくないと思う人がいるとは思えませんが、お店番の合間にショッピングモールでの売上記録を眺めていると、ミクロ(日報)では天気が悪い日は売上は低いのですが、マクロ(週報や月報)ではほぼ一定に収まるのです。

天気が悪い日でも、午後から晴れれば人通りが回復して、売上も閉店時には平均的な売上になりますし、天気が終日悪くても翌日や週末で売上は上回る回復をするのです。ですから週単位で見ればさほど雨の日があっても影響は少ないと言えます。

正確なことは長期的な傾向です。

経営指標で前年同期や前年同月の比較がありますが、経営者や株主が重視する理由がよくわかります。

長期傾向が右肩下がりは気が気じゃないでしょう。(外回りの営業さんは「左肩あがり」と言ってました、初めて聞いた言葉w)

この売上の減少傾向の対策として、多くの小売店や飲食業が取り入れているのが、深夜営業や24時間営業といった長時間の営業です。

かくして早朝から深夜まで煌々と灯りが点いている街ができあがりましたとさ。

めでたくないめでたくない。

たいていは管理者やアルバイトにしわ寄せがきています。10時間12時間勤務が平然とされているのがサービス業の実態。

長時間勤務は人間の思考能力を奪い取る



限られた空間と情報源のみで一日の大半を過ごしていると、どんどん考えることが奪われていくことが実感されます。
関心が目の前のことしか向かなくなっていくのです。

テレビでやっていましたが、日本は労働時間では世界第三位です。一位がアメリカ、二位が韓国なんだとか。
ところが労働時間で割った生産性では先進国最下位です。

ヨーロッパでは家庭で過ごす時間は最低11時間なければならないと法律で決められています。
あくまでも人は家族と地域に属していなければならないという考えが根強くあるからです。
ドイツの公務員はお昼の3時には帰っちゃいますからね。6時間ぐらいしか働きません。

日本に旅行できたヨーロッパの人が驚くことが、夜の7時とか8時に人が通りにたくさんいることです。
夜に人混みがあるのは、祭りがあるときぐらいなので「日本は毎日が祭なのか」と勘違いしてます。
9時とか夜になっても会社に居座っていることにも、信じられないと驚いてました。

アメリカ人は遅くまでオフィスにいるのは経営者や管理職なので、同情などは一切しません。
でも日本ではぺーぺーでさえも定時に帰らないのかと不思議がっていました。

この現状を改善するために厚生労働省は長時間拘束の監視を強めているのだとか。

ここ浅草では仲見世(なかみせ)や道具屋街は18時にはすべて閉店してしまいます。まだまだ明るいこの季節にシャッターをガラガラ閉めてしまう光景はちょっとした驚きでしたが、これが一番だと私も思います。

昔は蕎麦屋なんて11時あたりに開店して3時には閉めるのが普通だったのに、なんなんでしょうね。

いまでは大型ショッピングセンターは24時間や9時や10時といった夜間営業があたりまえになっていますが、これほど非効率な社会はないのだなと、実感しています。

本はおろか、新聞やテレビさえも見ることが出来ないのですから、これほど恐ろしい洗脳隷属化社会はないと寒気をもよおします。

今の中高年、老齢世代と比べて、若者20代30代前半で一日の大半を他人に奪われていると、知識を仕入れることができません。
知識や経験量では大きなハンディを背負っているのです。

今はスマホがあるから十分だと言う人がいるかもしれませんが、所詮は受け身の情報に過ぎず、思考の形成には役立ちはしないのです。
しょせんは借り物の知識です。

長時間の労働時間を強要する社会を私は心底憎みます。

ブラック企業を叩けって?

とんでもない日本自体が『ブラック社会』そのものじゃありませんか



私は他人に時間を与えるのは6時間が限度です。
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活気無く潰れつつある問屋街 
Thursday, July 2, 2015, 10:21 PM
7/2 雨 10時 浅草での空間線量は20ベクレル/立法メートル

昨日は錦糸町から回り道をして浅草橋に寄って帰りました。
浅草橋は手芸用品やバッグの留め具などの小物、アクセサリー、皮革の卸問屋がたくさんあります。
小売もしてくれるので、自作派の私にとってはありがたく、心強い場所です。店員さんに聞けばいろいろアドバイスしてくれます。

浅草橋の南には馬喰横山という場所で、こちらは紳士服・婦人服の問屋街です。
浅草橋の北は蔵前といって玩具問屋があります。

そこからずーっと北側にいくと、浅草道具屋街(合羽橋道具屋街)という通りにつながります。
ここは厨房用品、食器のお店です。

私にとって浅草橋から道具屋筋までの一帯は、とても重宝する場所です。

ところがこれら問屋街にもシャッターが閉まったままとか、閉店の貼紙が目立つようになりました。

単価の安い金具や素材が売れてないのです。

セール、大安売りと垂れ幕が下がっていて、夏物の服は今は投げ売りになりつつあります。
へたしたら70%OFFという看板さえ見かけます。

洋服は値引きしても売れるでしょうが、金具や素材、厨房用品といった商材の基となるものは値引きして売れる物ではありません。寸胴鍋が安いからもうひとつ買っておくか、なんていうわけにいきませんから。

問屋街は消費のバロメーター(気圧計)



需要がものすごく落ち込んでいるのが肌で感じます。
浅草のショッピングモールでも閉店が相次いでいます。テナントがいなくなってガランとした空間が1階2階にも目立つようになりました。
ここに越してきて初めて見る光景です。

新規開店がなく、撤退縮小が末端で起こっているわけですから、そこへ卸す問屋街だって青色吐息です。

消費税増税が経済の息の根を止めつつあります



小さな商店、長年の問屋、下町にたくさんある軽工業が潰れてしまったら、日本の強みである製造業は壊滅です。

アイフォーンや自動車だけが製造産業ではない。

多種多様な雑貨が日本の製造業を象徴していたのに、お先真っ暗です。問屋街を歩けば、7月なのに肌寒くてしかたがありません。

家内制手工業のような小規模製造業が集まる台東区や墨田区、足立区、江戸川区、葛飾区などの城東・城北地域は喘いでいます。おばちゃんたちと話すと愚痴ばかり。
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がさつな女は歩き方でわかるな 
Wednesday, July 1, 2015, 10:52 PM
7/1 雨 16時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル

半日だけ錦糸町のショッピングセンター・オリナスに突っ立ってます。
今日のような雨ですと、駅前ではない立地の商業施設は人は流れてきません。

目の前の錦糸町公園に訪れる人を狙った施設ですから、平日の雨模様となれば客足は遠のくことは予想できること。案の定開店しても人通りはまばらです。
昼頃になるとやっと幼児を連れた母親が行き交い出しましたけど。

墨田区錦糸町という場所は、もともとは場末の繁華街だったところで、若者や家族連れが集う場所ではありませんでした。
ところがスカイツリーに一番近いJRの駅ということで、しょぼい駅ビルしかなかったところに、商業施設が建ち並んだのです。

小規模の衣料品や雑貨の卸が裏通りにあったり、相撲部屋があったりして散策すると面白い場所です。

そして国籍もバラバラな人たちが行き交う場所です。

女性向け衣料品の専門店が建ち並ぶところなので、まばらに女子高生、OL、赤ん坊を抱えた母親、妊婦さん、おばさんらが目の前を通り過ぎていきます。

従姉妹のお店の店番なので、気楽に眺めています。

でもあることに気づきます。

女には颯爽と歩く人種と不格好に歩く人種がいる



年齢にはあまり関係ありません。年配でも立ち振る舞いがきれいな人がいる一方で、どたどたドスドスと歩き回る女子高生風情もいます。おもわずどこの相撲部屋の人かと訊ねたくなります。

足元を注視していると、あることに気づきました。

つま先が外に向いている女は、がさつです



着ている服装も普段着ですし、髪型もそれほど手入れしているようにはみえません。
はっきりいっちゃえば、若くても錦糸町のそこらのおばちゃんと同じ。

相撲部屋が多い地域なので、まさに相撲取りのような歩き方・・・ごっつぁんごっつぁんと言いながら歩いているようなもん。
ははん、ここはタイ人と韓国人の比率が多い地域なので、その国の方なんだろうなと合点しました。

総武線で若い女性が日本人であるかどうかは、すぐにわかると知り合いの医者の話を思い出しました。

「日本人は座っているときには必ず膝頭を揃えているだろ?でも、たとえば韓国から遊びに来ている女性をみていると、だらしなく股を開いて座っているからすぐにわかるんだ。」

これは幼稚園ぐらいのときから座るときにしつけられないと、内ももの内捻筋が鍛えられないから一朝一夕では閉じられないなのだとか。つまり自然ときれいな立ち振る舞いができるかどうかは小さいときからの訓練(習慣)で培われるのだとか。

タイや韓国では股を開いて座ることがあたりまえの日常生活なので、日本に来ても気を緩めるとすぐに

ぱかっと股を開いて座っている



のだそうです。たしかにそうですね、京成線の韓国人女性は日本人女性の座り方と違います。

ですから、国籍かお育ち具合は歩き方でだいたい推測ができてしまうのです。

きれいな立ち振る舞いの女性は、踵のない靴は履いていませんね。

妊婦さんや赤ちゃんを抱えているお母さんを除けば、踵のないズック靴(スニーカー)は感心できませんね。

なぜなら、歩き方も体型も「おばさんそのもの」だからです。
太った年寄と何も変わらない。

きれいでスタイルの良い女性は、足の親指の付け根(拇指球)を先に着地して歩いています。
一方、がさつな女は踵から着地して、ドスドスドスとドカタのオッサンのように歩き回ります。

もちろん眼が汚れるので、そっぽ向いてます(笑)
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「何のために勉強するの?」哲学なき社会の弱さ 
Tuesday, June 30, 2015, 10:42 PM
6/30 晴 16時 浅草での空間線量は20ベクレル/立法メートル



まもなく夏休みに入ります。そこで勉強しなさいと叱責したら、子供から「勉強はなんのためにするのか」と反論されたら、どうすればいいかをラジオで意見の募集をしていました。

寄せられた意見や教育評論家と呼ばれる人物がごちゃごちゃと言い訳めいた話がされていただけです。

たいていは「将来のため」「なりたい仕事に就くため」「良い暮らしを得るため」・・・そんなところでしょうか。

哲学なき日本に反吐が出る



なんのために勉強するのかと言われれば、発展途上国の子供たちは自分と国を豊かにするためと即答するでしょう。
もちろん幕末から明治となり、猛烈に欧米列強に立ち向かうために必死で、貪欲に吸収していく意欲が日本にも満ちあふれていたでしょう。
そして1960年から70年あたりまでは日本と自分たちが豊かになるためと答えたはずです。

その頃は子供であった私の世代だって親がいうままに信じたはずです。
でも思春期あたりで、自我が生まれるとたいていは疑問に感じるのです。

はたして「なりたい仕事に本当に学校の勉強は必要か」「良い暮らしとは何か」という漠然とした懐疑が生まれるのはあたりまえ。

物質的には十分満たされていますし、私の世代ではジャパンアズナンバーワンと奢れた時で繁栄の頂点のように感じられていた頃です。

高校生の私は考えました、なんのために勉強するのかと。

とりあえず

・良い暮らしとは大きな家、良い車、奢侈な生活
・いい女(誰もがうらやむ才色兼備の美人)と結婚するため
・社会的なステータス(誰もが知っているブランド企業)

これらを得るために勉強というものをするのだろうと不完全ながら考えました。
今の若者言葉で言い換えれば、「スペックを高めるために勉強するか」ということ。

そして30年後の中年真っ盛りの現在で

高スペックなことは何も手にしてません



・良い暮らし・・・東京の下町で賃貸生活
・いい女・・・縁がありません、というかお目にかかったことがありません
・ステータス・・・入社後すぐに挫折

もし30年前にタイムマシンで戻れるなら、もっと好きなことやれよと自分に言いたいです。
どうせ同じ結末だから(笑)

何か一つでも得ているのなら、幸運な方でしょうね。

個性を重視した教育方針ですとか、子供の個性を尊重しますとか知った顔でいうテレビタレント風情の教育評論家がいます。

個性とは「神さまからの授かり物」という意味



宗教的な背景があってこその言葉で、キリスト教圏において個性(personality)は神さま(God)からの授かり物であるから人間が侵してはならないという意味合いです。

もっと露骨に天才(genius)、天性(talent)は欧米では「(神から才能を)与えられし者」(gifted)とも呼ばれます。

少なくとも家庭と地域社会において信仰に基づいた暗黙の教育方針があるわけです。

つまりは「勉強する行為=信仰の行為そのもの」であるから、何のために勉強するのかという疑問こそ信仰に反する愚問なのです。

勉強することは信仰の行為そのもの



神棚もなく墓参りもしない無信仰の親の元で育てば、たいがいバカに育ちます(笑)

黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」、ビートたけし(北野武)の「たけし君ハイ」やB&B島田洋七の「がばいばあちゃん」といったベストセラーを読みましたが、共通していることは信仰心の厚い母親か祖母が必ずいるということです。

あれをしてはなならい、これをしてはならない、これをしなければならないと口うるさくいう母親(祖母)が必ず登場するのですが、叱る理由はほぼ「信仰に反しているから」という諭しなのです。

それを子供はなんとなく感じて従うわけです。これが単に親の私見やエゴだったら反発するだけでしょう。

無神論者(atheist)無信仰者(nonbeliever)の意見はエゴイズムでしかない



子供はそういう欺瞞をするどく見抜きますから、たとえ親であっても聞く耳を持ちません。
アホかと反発するだけ。

親は子供に哲学をちゃんと示さねばならない存在であるべきなのです。

哲学とは宗教(信仰)に基づいた考え方やとらえ方です。つまり上位に宗教(信仰)があって哲学(勉強の体系)が生まれ、そこから思想が生まれ、その下に思考(考えの道筋)、さらに戦略と技術ができるわけです。

宗教(信仰:神さまGod)→哲学(Godはどう我々を形作ったのか)→思想(Godの意志とは何か)→思考(自分自身の答え)→戦略(どうすればいいのか)→技術(問題解決への手腕)

このような道筋になるのです。

ところが日本の大多数を占めるバカ親は思考も思想も哲学も持ち合わせていない。
いや日本全体が哲学から信仰心も消え去っているのです、戦後からずっと。

哲学無き日本は「経済力(お金)という神さま」しかいなかった



戦後教育でくるくるぱ〜にさせられたから、勉強の目的を即答できないわけです。
信仰心抜きの教育は上滑りな建前論と見透かされています。

今の公教育に期待している中間層以上の世帯はいませんよ、東京や神奈川では。
都立中学や都立高校は荒れまくってますから、こぞって私立に通わせたいという親が多いのです。

私立ならすくなくとも問題児は退学という手段があるからに過ぎません。
理由はそれだけ。

低偏差値、荒れている学校の生徒というのはたいていは家庭も無信仰なのです。

勉強する/しないは信仰心から醸し出されるものであって、進学しないという選択だってとうぜんあるわけです。
ヨーロッパ、特にドイツでは子弟制度があり、テクニシャン(技巧者)として生きる道筋がちゃんとあるわけです。
そちらへ向う人という神の指示があったということで、劣等感も何もないわけです。

日本では「金儲け教」の脱落者としかみなされません。んで、低脳の親は悲しむという構図。

これがいまでもずっとつづいている。日本は戦後はずっと「無宗教国家」ですから。

だから「なんのために勉強するの?」という問いが子供らに出てしまうのです。そしてそれに答えられない親の存在、そのまた親の存在がどうしようもないからです。

創価学会の官僚が今は大部分を占めるのは当然の結果



霞ヶ関では一説によると三割近いキャリアは創価学会なんだとか。
私は創価学会に対しては別になにも感じません。日蓮宗系の宗教としか認識していません。

たしかに勉強できる奴が多かったかなという認識です。
受験勉強は大学生が教えてくれるから勉強会においでよと誘われましたことがあります。
彼らにとって日々の勉強や受験勉強は修業の日課にすぎないという認識があるのでしょう。
そこには何のために勉強するのという疑問の余地もありません。ついでに折伏。

だから教師や塾で創価学会信者が多いのは当然なんだなあと思います。

「なんで勉強するの?」の答えを持っているからです。

即答できない親は哲学もなく思想もない馬鹿親です。そんな親の元に生まれたことを憐れむべき時代になりつつあります。
背骨のない子供にしっかり立てということと同じです。

そもそも日本で勉強とはなにかを親も教師も知らないのですから


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ただいま店員修行中 レジスターって結構難しい 
Monday, June 29, 2015, 12:36 PM
6/29 晴 11時 浅草での空間線量は24ベクレル/立法メートル

7月中旬まで不定期で浅草からすぐの錦糸町の商業施設オリナスにおります(笑)
東京建物の施設で、上階にはシネマコンプレックス、下階は専門店街となっています。
そこで半日つったってます。

アルバイトの学生さんが期末試験なので、従姉妹の会社のピンチヒッターなのです。
まだ三日しか行ってませんけど、お店番に過ぎないとはいえ、初体験で毎日どぎまぎしてます。

自店舗ならば開店も閉店も自由が利くのですが、ショッピングモールは厳格に決められているそうです。
つまり10時開店までに必ず開けて、閉店が21時ならばきっかりそれまでお店を営業しておかねばならないということ。

ですから遅刻はできなければ、子供が発熱や怪我といった急用でも店を閉められないのです。そのようなことがあればペナルティーを課せられるそうです。

子供のいる女性にとっては厳しい職場。子供との会話が長時間勤務でできないという愚痴も聞きました。(通勤時間を合わせれば一四時間にもなる)

また喉が渇いても、小腹が減っても口にしてはなりません。これはお店をやっている人には当たり前のことか。

そして驚いたのは、常に立ってなければならないのだと。スツールが置いてあるので座って良いのかと思っていたら、これは商品棚に手を伸ばすときの踏み台なのだとか。

へぇぇぇ〜と感心するばかり(オレに務まるか・・・)

お隣の店舗の中年アルバイト店員は座ってスマホをいじくっている姿が監視カメラでばっちり映されて、すぐにショッピングモール側から厳格注意の上退去させられたのだとか。一挙一動どっかからふさわしくない行為として監視されているそうです。

まだコンビニはひっきりなしに客がくるから、手を休める暇はないでしょうが、専門店はそれほどお客が列をなすことはありません。
つまり、ず〜〜〜っと手持ちぶさた。おまけに駅から離れているので平日は客もまばらです。

商品の位置を直したり、服をたたみ直したり、つねに身体を動かしておかねばならない。(店員が暇そうな店はお客が入らないから)

あと、いつも恐る恐るなのが、レジ打ち(泣)
こいつがオレを悩ませます。

電卓の親分みたいなもんだろ〜と思っていたのですが、打ち間違えるとさあたいへん。

たとえば税込み1,080円を1,008円と打ってしまい、[C(クリア)]ボタンがあるので、それを押して改めて打ち直しても、一旦1,008円が売上に計上されてしまいます。つまり打ち間違えるたびに累積して実売上と乖離していきます。

そして締めで現金がたらな〜いと大騒ぎ(笑)
だからレジ打ちとあわせて、手書きで売上記録をしっかり書き留めておかないとミスがわからない。

なぜ打ち間違えるのかというと、商品区分という必ず押さねばならないボタンもあったりと、あれこれ押さねばならず、それを省くとすぐにE(エラー)が出てしまうのです。そしてそれも売上には記録される・・・。

おまけに値段が税込みと税抜きの2つがある・・・。
アホだろ、このレジスターメーカー!(具体的にはカシオ製)

レジスターを放り投げたい衝動に駆られます(爆)
店員間では「バカレジ」と呼ばれているそうです。

さらにレジの売り上げ記録は毎日ショッピングモール側に提出しなければならないことも知りました。打ち間違いがあると報告の日報も書くことが多くなるのです。

一秒でも早く帰りたいのにイライラします(いや、させてますw)

それぞれ独立した店舗のように思っていたのですが、売上も監視されており、あまり低いと別テナントに替えられてしまうのです。厳しい世界だねえ。

それからというもの、スーパーのレジのおばちゃんらを見る目が変わりました。
いくつものボタンを瞬時に押していることに敬服します。
それとたくさんの人が働いていることに驚きました。小売業とは人海戦術の世界なのです。


何事も体験ですねえ。
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国連やNATOの「集団安全保障」活動を「集団的自衛権」と印象工作する朝日新聞 
Sunday, June 28, 2015, 11:28 AM
6/28 晴 10時 浅草での空間線量は20ベクレル/立法メートル

昨日の新聞を読むまで『集団安全保障』という言葉を知りませんでした。誰も興味ないし下手な直訳した日本語というイメージしかないでしょう。
よほど関心がなければ調べようなどという気持ちすら起きません。

『安全保障』という言葉は『軍事同盟』ということ



「安全を保障する」のは警備会社の宣伝文句ではありません。

ちゃんと戦前では「(軍事)同盟」と報道されていたのに、国民を騙すための印象工作として「安全保障」と置き換えられたのです。

英語ではアライアンス(alliance)であり、同盟国はアライ(ally)といいます。

軍事同盟を辞書で引くとミニタリー・アライアンス(military alliance)となりますが、いちいち軍事をつけなくてもアライと言えば、「義」や「戦友」「共同体(一心同体)」というものすごく強い結びつきを示す言葉なので、アライアンス自体が軍事(power、force)の意味を含んでいるのだとか。(副島隆彦先生の英語解説より)

スネ夫とジャイアンはallyだ
(Suneo and Giant are allies.)

このように言われれば、誰もスネ夫にちょっかいを出せない。なんかあればジャイアンが拳を振り回して飛んでくることは理解できます。
そして問答無用に殴られることを覚悟しておかねばならない。

同盟(alliance)という言葉はそれほど重い重い意味なのだとか。
まっ、それを戦後の官僚たちが、ヨレヨレ爺しかいない警備会社の宣伝文句のような安っぽい言葉に置き換えたから意味がわかりにくい。

「集団安全保障」を英語ではCollective security、直訳すると「みんなによる警備体制」となってずいぶん受け身的な意味を持たせています。
とはいえ「集団」とは具体的に国家群、たとえば国連(the United Nations)、NATO(北大西洋条約機構:the North Atlantic Treaty Organization)やワルシャワ条約機構、上海条約機構などなどの締結国を示します。

「Ally(同盟)」よりも関係が浅いニュアンスの「Treaty:条約(国家間の約束・契約)」であっても、軍事力の融通という点では同じです。

真偽はわかりませんが、第一次大戦時の日英同盟下で日本軍が参戦に積極的でなかったことが、後の同盟破棄につながったという史観があります。アリバイ的に近場の上海のドイツ租借地を火事場泥棒のように奪っただけだという嫌疑がうまれたという説です。当時にヨーロッパまで派兵するだけの国力もなかったのでしょうが、もちヨーロッパ戦線に僅かな兵隊であっても送っていたのならば、歴史は大きく違っていたかもしれません。

掲載した記事は、NATOによるドイツのアフガニスタン派兵を同盟による集団的自衛権の行使のように報道して読者を混乱させたという指摘です。

・2001年アフガニスタンへのドイツの派兵は条約に基づいたもの
現在国会で審議しているのは
・自衛行動を同盟国で分担し合う是非をとうもの

全然意味合いが違うジャン!

自衛権とは主権国家が有する権利であることは国連においても常識です。
さらに集団的(=軍事同盟国)での自衛行動も主権国家においてはごく常識的に認められています。

新聞による思想操作の一部を見た感がします。

なんとしてでも日米軍事同盟に亀裂を生じさせた〜い



もちろん中国(中国共産党、人民解放軍)が願っていること。それを朝日新聞がみごとに実行しているということ。
プロパガンダはこのように行われるという見本にもなりそうです。

あっ、私は日米安全保障条約は破棄となってもいいと思ってます。それが真の独立国家の姿ですから。

でもその時は核保有、大幅軍備増強、兵器開発への国力投入と誰もが期待しない方向へ向うことになるでしょう。
日本が軍事国家となってほしくないと、思っていても結果は正反対になってしまうということ。
(このような意に反した結果を小室直樹は「合成の誤謬(ごびゅう)」と名付けました)

関連ログ:集団的自衛権とは軍事同盟下では当たり前の行動なのに
数量化という概念が理解できていない人物の戯言は日本に悲劇的な結末を招く
3分で読む小室直樹「新戦争論」(学問道場版)

新聞を揶揄する川柳を紹介しておきます。

アカが書き、ヤクザが売って、馬鹿が読む



馬鹿は無害ならいいのですが、やる気だけある馬鹿ほど手に負えないものはないです。
だから国家問題は一小市民にとっては無関心であることが一番です。

なぜなら政治的関心が強い人は利用される(そして捨てられる)だけの存在だからです。

はい、私は新聞記事の99%はどうでもいいことです。


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沖縄独立論は米中代理戦争の舞台になるだけ。それでよいならば御勝手に 
Saturday, June 27, 2015, 02:46 PM
6/27 曇 10時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル

本日もどうでもいい話

中朝、米国政府=国際巨大資本、日本政府、国内大企業それぞれ利益の代弁であるのが新聞やテレビといったメディアであることはあらためて言うまでもありません。独立を謳うNHKであってもプロパガンダの一角に連なります。

そんなことは誰もがわかっていること、なのに・・・

テレビ制作の経験を買われ、NHKの経営委員会に抜擢されたりと自民党に重用されている百田尚樹(ひゃくたなおき)の放言がかっこうの非難の的になっています。

(政府方針に反対を唱える)共産系沖縄地方紙を潰してしまえなんて発言は本音でしょうけど、公で言うことではないでしょう。

安保法改正反対で使われる「戦争になる」という陳腐なフレーズしか繰り出せない野党民主党はかつての社会党と似たような存在になりつつあります。

けっきょく民間人でありながら舐めきった発言をする百田氏は、慢心がすぎると誰もが思うでしょう。
ましてやマスコミ出身者でありながら、マスコミすべてを敵に回してどうするんだ(笑)

米中ではプロパガンダ(印象操作工作)という戦争の真っ最中



いきなり背後から撃たれたと自民党議員は思っているのではないでしょうか。

リーサルウェポン(切り札)かと思い陣営に加えてみたら、誤爆・暴発を繰り返すどっかの国の武器みたい(笑)

いかりや長介ではないですが「ダメだこりゃ〜」

沖縄が独立して自主政府樹立を宣言したければしたらいいじゃないか



アラブや動乱がつづく東欧のような代理戦争による地獄絵図になるのはあきらかでしょう。

中国を新たに宗主国とするのも、それはそれで琉球王朝の歴史上やむを得ません。

このように百田氏が切り返したら、少しは左翼系(中国寄り)メディアは黙り込んだだろうに、中共に利する発言してどうするんだ(笑)

非武装中立を謳ったところで、結局は周辺諸国から常に軍事的な脅威を意識して、さまざまな問題(領土・領海)を解決していかなければなりません。

非武装中立とは他人の褌をあてにする楽観主義の極み



一旦周辺のパワー(軍事)バランスが崩れると、真っ先に体制崩壊するのは地政学的には当然のことです。

結局は沖縄の人間も闘わなければならないということ。

だからって私は「琉球独立論」を否定しているわけではありません。

むしろ闘って戦って、戦い抜いて沖縄の人々が独立を目指す気位を持ち続けて欲しいと願っています。

日本の独立は沖縄からはじまって欲しい



私はリバータリアンですから、軍隊ぜんぶ追い出して、米中露どこにも恭順せずに、我々で美しき沖縄を死守すると蜂起して欲しいです。

それぐらいの激しさがあれば、全日本人が真の独立とは何かと目が覚めていくでしょう。

沖縄はちょうどキューバのような位置づけになるでしょう。

私が生きている間に、カストロやゲバラのような人物が現れて、琉球独立宣言を出す日が来たら、感動するだろうな。

もちろん日本人も琉球人もたくさんの血を流すことになりますけども、それはやむを得ません。

イデオロギーの闘いはどちらかが殲滅されるまでつづく、非情なものなのですから。

左巻の「米軍出ていけ」論はもっともっと激しく運動をやったらよろしい。
そして武力抗争へと発展して、生きるか死ぬかで白黒つけたらよろしい。

一番血なまぐさい解決ですが、主張を貫くということは、そういうことです。ちなみに

イデオロギーの闘いはNHK大河「花燃ゆ」から学びました(爆)



怒れる沖縄県民よ、さあカラニシコフ(AK-47)を手に取ろう!ただ中国製コピーだろうけどさ。そんな時がきたら私たちも無関係ではなくなりますけど、それも仕方がないです。


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ファブリーズ(消臭剤)のTVコマーシャルがうっとおしい 
Friday, June 26, 2015, 05:25 PM
6/26 曇 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル

たまにはどうでもいいことを書きます。

湿度が高く、汗をかく時期になりました。
ちょっと身体を動かしただけでシャツが汗ばみます。
衣類は洗ってしまうのが一番気持ちがよい。

私はべつに洗濯可能なものではないスーツやジャケットでも平気で水洗いしてしまいます。

過去に以下のような経験をしたからです。

ドライクリーニングしておいた夏服を久しぶりにタンスから出して着てみたら、なんか臭い。どれも体臭が染みついて気持ち悪いので、やけっぱちで風呂の残り湯に突っ込んでみました。

残り湯が紅茶色になりました。

衣類用中性洗剤で丁寧に洗ってから、脱水機にかけないで、タオルに挟んで水気をとって吊しておきました。あら不思議、テカテカしていたスーツがふっくらしました。

調べてみると、ドライクリーニングは油汚れだけしか落ちないため、水溶性の汚れ(汗や垢)はそのままなのだとか。

それいらいウールだろうが麻だろうが、手洗いしています。

そっちのほうが襟首などの汗染みがきれいに落ちるからです。さらに着心地が良くなります。

たしかVAN創業者の石津謙介氏も、アルマーニは水洗いしたほうが風合いが出て、ずっと着心地が良くなると、自分のドレススーツはドライクリーニングをせずに、高級ブランドでも平気で風呂場で水洗いしていたそうです。

型くずれや皺が気になるのであれば、ビシャビシャのままトルソ(マネキンの上半身)やタオルを巻いたハンガーに掛けておけばよいのです。この時期ですと、一日で乾いてしまいます。

掛け布団や毛布も平気で洗ってしまいます。ダウンジャケットも羽毛布団も水洗いします。

水洗いにまさる気持ちよさはありません



ところがテレビコマーシャルの影響なのか、汗まみれの運動靴やトレーニングウェアでさえも親の敵のようにファブリーズをかける人がいるのです。

洗えばいいのに、面倒だからとあちこちにシュッシュッシュッシュ、はいこれで明日もOKとのこと。

・・・でもねぇ〜、遠くにいても臭いんだよ。それも微香を伴った嫌な臭いです。
この臭いは身に覚えがあるなあと思っていました。

先月はビジネスホテルに連泊していたのですが、ビジネスホテルの部屋の臭いってファブリーズの臭いなんですね。どうも掃除係が枕や掛け布団にシュッシュシュッシュしていくようです。

人工的な臭いが充満しているので、部屋にはいるとまずは窓を全開にして臭気を出します。

そして我慢して寝る(笑)

テレビコマーシャルの悪害でしょう。洗える物は洗った方が良いし、ソファーやカーペットなどは熱いお湯で叩き拭いた方がよほど気持ちがよいはずです。

でも誰もやらないし、シュッシュッシュで済むならそれで良いと思っている。

悪臭も慣れれば感じなくなるのでしょう。

ファブリーズって単なる薄い重曹水だそうです。弱アルカリなので酸性の臭いを中和しているだけで、アルカリ性の臭いは消せません。

除菌だ消臭だと消費者を惑わしていますが、要するに

肌に触れるものが、ずっと汚れっぱなしってこと



あ〜気持ち悪い。そしてファブリーズ臭い奴は大嫌いw

いっぽう私は衣類寝具のみならず、電化製品、パソコン、テレビも水洗いしてしまいます。
コーヒーをこぼしたキーボードをバケツに突っ込んで洗うわ、ブラウン管テレビは裏蓋空けて洗車たわしで擦ってやりました。パソコンもなんどか基盤を台所で洗っています。これだけで直っちゃうのです。

過去ログ:そもそも根拠のない数字だからこうなるのです
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人権平等主義のオウンゴール 過激平等主義は国家を揺るがす 
Thursday, June 25, 2015, 12:02 PM
6/25 曇 10時 浅草での空間線量は10ベクレル/立法メートル

ギリシャ債務問題よりももっと根本の重大な問題がEUを揺るがしています。
北アフリカ地域から地中海をわたって難民が押し寄せてイタリアが悲鳴をあげています。

日本の半分ほどの人口に年間17万人、今年前半だけでも10万人を越えているので今年は20万人を越える勢いです。
昨年とあわせて40万人近くがイタリアやギリシャに住み着くだろうということ。

日本にあてはめれば人口数の少ない地方の県がまるまるイスラム教徒占有されたようなものです。

人口比では0.6%程度ですが、言葉も宗教も慣習もすべて違うのですから仕事ができるはずもなく、税金で養わなくてはなりません。衣食住を提供するのに、100人から徴収した税金を回すとしたとして、40万人のために4000万人!が赤の他人のために稼ぐハメになります。4000万人という労働者数は日本のほぼ健常な成人(労働人口)に該当します。

難民の受け入れをEUの規則として制定しているのですから、イタリアやギリシャは大いに弱っています。

なんで難民の受入れがEU加盟の条件だったのでしょうか。

それは、EU(ヨーロッパ諸国連合)とはドイツがヨーロッパの覇権を握ったことで成り立った実質「ドイツ第四帝国」だからです。(第三帝国をナチス国家とした場合)

大戦後ECを経て、ユーラシア大陸に散らばるロスチャイルド系の貴族がドイツに恭順して成り立ったのがEUという連合国家です。

それも最悪なことに、「人権平等主義」という偽善を建前にして・・・

皮肉なことに、同じ偽善国家アメリカのアラブへの介入で、間接的に首を締め上げられているという大きな構図となっています。

あ〜あ、どんどん問題が大きくなって、一国家ではどうしようもならなくなっちまったよ。

EUからみれば日本の在日朝鮮人問題なんて問題の内に入らないです。どこでもある民族対立にすぎない。
それどころか、大阪(生野や鶴橋)や東京(新大久保、西葛西)、群馬(太田市のブラジル人街)などなどは一二〇点の点数をつけてもいいのではないでしょうか。

日本という国家は異言語・異教徒らに本当は寛容な国家なのです



私はEU発足後にドイツに滞在した経験があります。
まだ当時はユーラシアが(ロシアを除いて)統一されたという機運が満ちていたし、ドイツ人やフランス人は国境がなくアルプスを越えてバカンスを楽しんでいるように見えました。隣町へいくような感覚で1000kmぐらいのドライブに行ってしまうのです。

ところがアメリカでもそうですが、街を外れると、あからさまでない些細な差別はいくらでも体験できます。日本人もそうですが、小馬鹿にされていたのはギリシャ人やポルトガル人、東欧諸国の人たちら出稼ぎの人たちでした。ウエイターやウェイトレスはほとんどそういう人です。身体で稼ぐ仕事の出身国は相場が決まっているのです。
フランクフルトなどではスーツを着たアフリカ系の人ももちろんいますし、大都市ではいろいろな人種がごちゃごちゃいますから気になりませんけども。

我がドイツ国家こそコスモポリタンだという自信があちこちにみなぎっていました

それが

EU発足20年が過ぎて内部崩壊は目前



ドイツという工業力と資本力が強い国と、強力な産業がない国家とでは一方通行の関係になっていきます。ドイツの発言力が高まっただけでした。

ナチズムを全否定したら自縄自縛(じじょうじばく)で自爆しつつあるのが独仏両国の姿です。
だからプロテスタントの信者はドイツで減っているのだそうです。プロテスタント福音派の洗礼者数の減少が著しいのだとか。
アメリカもプロテスタントは減少傾向で人口比ではすでに半数を切っています。

カトリックに対するプロテスタントと一口で言っても、オランダから英国を経由して新大陸アメリカへ渡っていったのは清教徒(ピューリタン)というユダヤ教と合わさった宗派(ユニテリアニズム=一神教=ユダヤ教=フリーメイソン)を信仰する人たちです。

これに対する勢力はご存じバチカン(カトリック・イエズス会)でした。

アメリカがなんでイスラム・スンニー派を支援してきたのかというと、イスラエルのロビーによるものでもあるし、シオニズムを支持するユダヤ人資本家がシーア派(具体的にいえばイラン)への制裁を推していたわけです。

私の推測ですが、つまり敵(カトリック・バチカン)の敵(イスラム・スンニー派)は味方という流れもあったはずです。

ところが20世紀はカトリックを大きく凌駕(りょうが)したかのように見えたプロテスタント派は近年大きく勢力をそがれています。

もっともアメリカはとうの昔にカトリックに支配されている国でもあるのですけれども
過去ログ:カトリックとプロテスタント、どちらが原理主義(またはカルト)に陥りやすいでしょうか?
Liberty(リバティ)はプロテスタント・カルバン派の標語でしたが・・・
>CSIS(戦略国際問題研究所)の設立母体はイエズス会であった


プロテスタントの掲げるリベラル(福祉主義)・自由平等主義の<偽善>がやっと嫌われてきたからです。

ヨーロッパのみならず世界では右翼(民族主義)勢力が伸びているのがその証左。またピケティが述べているようにフランスでは露骨なほどカトリック優遇措置へ傾いています。自由平等を謳っていながらの矛盾した政策を進める政府という構図です。

ギリシャがEU脱退となるとギリシャ人のみならず喝采を送る人たちが多いのではないかな。特にカトリックの人たちは。

1982年に小室直樹先生が国連という幻想を捨て去り、自前の軍隊を確立することが世界の秩序安定につながるという逆説に辿り着いたことはご自身でも驚いていたそうです(副島隆彦談)

弟子であるその副島隆彦先生も、元左翼主義者でありながら、世界の国家問題の根源は18世紀にルソーが唱えた<過激・人権思想>にあるという結論に辿り着いてしまったのです。

今の国会中継などを眺めていると、なんか日本は半周は遅れているなと感じずにはいられません。
政治家たちに緊迫感がないもの・・・とくに辻本清美なんて馬鹿代議士の質疑なんか聞いていると。

馬鹿を掲げる国民性なんだから、日本にはお似合いです。

どっちみち我々は島国土人(islander:アイランダー)なんだから周囲だけ注力しておけばよいです。

キリスト勢力に荷担して他国にお節介しに行く必要はないのです。


あっ、でも私は憲法改正には賛成です。

これが費用もかからず一番軍事衝突の可能性が低い領土防衛策だからです




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スピリチュアリズムとは無自覚な土人宗教です 
Wednesday, June 24, 2015, 02:28 PM
6/24 晴 10時 浅草での空間線量は9ベクレル/立法メートル

明治となり西洋から啓蒙思想(フランス革命で宣言された「人権」という新たな概念)として流入した利己主義(エゴイズム)に悩んだのが夏目漱石であり、晩年の森鴎外ら文豪たちです。

「人権(Human Rights)」は今でも世情不安にさせる諸悪の根源だ


関連ログ:まさに「黒い巨塔」・・・最高裁事務総局の黒い支配! 「ニッポンの裁判」瀬木比呂志著
私は憐れむことには飽きた (旧約聖書エレミヤ書15章6節)
一票の”格差”が半世紀以上も放置されつづけているわけ
「余剰の時代」を生きのびるにはリバータリアニズムを根付かせるしかない
三権分立が厳格なアメリカで米官僚が安倍晋三に議会演説を要請するわけがない
NHKによるリンチ報道とまんだらけ万引き犯の擁護をするNHKの欺瞞
あなただって立派なフリーメイソン思想なのです
安倍政権の外国人労働者受入拡大に断固反対する!米国務省の仕掛ける罠
リバータリアンはナショナリズム(民族主義)ではない!むしろ究極のリベラルである
大日本帝國憲法(明治憲法)はキリスト教概念をとりいれた憲法であった
「医学的根拠とは何か」(津田敏秀 著)・・・専門家たちの独断のことです


朝日新聞で漱石のそれからが連載されています。
これを読んでいると明治の知識人の戸惑い(アンニュイ)がよくわかります。漱石に同情しながら読んでいます。

高校生の頃読んだ感想とはぜんぜん違います。漠然と恋愛の話だと思っていました。

ああ苦悶していたのだなあ、漱石さんは・・・

「明治日本はユニテリアン教会がつくった」(成甲書房 2014年)を執筆してからというもの、ずっと明治の知識人に関心を抱いております。

明治維新によって「国家と国民」という西欧に倣った秩序ができあがり、それに戸惑うのです。

主人公の代助が抱く漫然とした疑問・・・利己主義がほんとに近代的なのだろうかと逡巡しているのです。

代助の父は維新で活躍した武士階層であり、儒教的な旧来の考えを押し付けますが、代助はそれをのらりくらりとかわして働きもしません。

命をかけて守るものは何だ!?



それまでは武士であれば主君やお家であり、農民にとっては田畑だったのですが、文明開化という名目で霧消しました。
資本主義経済が生活をすべて変えていったのが、100年前の漱石の時代です。

そして倫理観もそれまでと一変して殖産興業、富国強兵こそ国民の責務と喧伝されていたのです。
漱石は”それから”の始めに主人公代助に馬鹿馬鹿しいと言わせていますね。
(対して鴎外は無邪気に一等国だとはしゃいでいます)

国家や資本家に対して働く意味を代助は見いだすことができません。

また学問に対しても常に傍観的な立場をとり続けます。昨日のアウトサイダー(outsider)の立ち位置に居続けるのです。

漱石はほんとうに頭が良かったのだなあ〜

明治日本はユニテリアン(フリーメイソン)らによって創られたことは、「明治日本はユニテリアン教会がつくった」で述べております。

ユニテリアニズムというキリスト教でありながらサイエンスを重視した思想を日本の知識層は近代思想として受け入れたのです。なんども言っていますが、物理・天文・数学といった理学は宗教思想から派生して発展していった経緯があります。

ですから”それから”の主人公・代助も本来は西洋では修道士のような人なのです。
また江戸時代では「食客(しょくきゃく)」や「客人(まれびと)」と呼ばれており、藩や豪商らが知識人を学者や指導者・相談相手としてそれぞれの屋敷に住まわせていたのです。

居候はべつに恥ずかしいことではなく、藩やお金持ちは知識人に見返りを求めることなく衣食住を提供していたのが江戸時代までの文化でした。

ところが食客としての身分を明治も終りになると、誰も認めない社会になってしまったということ。

サイエンス(science)という信仰に国民すべてが切り替わってしまったように漱石は感じていたのでしょう。

反動で明治から大正にかけて、新興宗教が乱立していきます。いまでも仏教系、神道系、キリスト教系あわせて600ほどの団体があるようです。

新興宗教が流行ったのは、社会変化(科学万能主義)についていけなかった人たちの受け入れの場だったのではないでしょうか。
はっきりいえば信者たちは、落ちこぼれであり、貧乏人であり、情緒不安定な人たちです

こういう人たちを救済することが目的ですから、それはそれで意義があったのでしょう。

いまは仏教も神道もキリスト教自体も日本においてはそれほど勢力はありません。

なぜならソビエト連邦が成立し、共産主義が知識層に拡がり、戦後さらに加速したからです。
新興宗教よりも昭和初期の国家社会主義、そして戦後は共産主義が昭和の代表的な思想だったからです。

ユニテリアニズムはリベラリズム(平等主義)であり、さらに共産主義と親和性が高いのですから、当然でしょう。

現代によみがえる霊魂主義(スピリチュアリズム)という先祖返りの宗教



占いの類は昔から脈々とつづいております。
「神」という言葉自体は本来は「占い師」「まじない師」であると副島隆彦は指摘しています。

日本人の「神さま」とは「ご託宣をくれる人」という意味程度で多用されますね。(例:〜の神さまと人を形容するときに使われています)

霊魂の存在を信じるのがスピリチュアリズムというのでしょうが、じつはこれはインディアンとか原住民といった非欧米諸国の土着宗教なのです。

日本でも小泉八雲や遠野物語の柳田国男が、地方の伝承をまとめていますが、妖怪伝説や霊魂のお話はそれぞれの土地に信仰として存在しております。

無宗教の時代である現代において、スピリチュアリズムが若者の間でひろく浸透しているということは、ふたたび土着宗教に信仰が戻っているということです。

とどのつまり四柱推命や風水も土着信仰の一つです



スピリチュアリズム(霊魂世界を信じる新興宗教)は自己啓発(いわゆる願えば叶うという信仰)や健康法(水に感謝するといいといった類)といった具合に形を変えてそこらに広がっています。

そこに精神的な安定を求めるのは結構ですが、そもそもそれらを信じる土壌には人々の劣等感・貧困・情緒不安・愁訴などがあるからです。土人宗教にのめり込む人たちはそういう問題を抱えた人達です。

知識層には属さない人たちが無自覚に信者となっているのでしょう。

六城ラヂウムはスピリチュアリズム(霊魂世界を信じる新興宗教)には関心がありません。

また新興宗教に関わることもないと断言しておきます。

ただ無神論者ではありません。いちおう神社では手を合わせますし、お墓参りもします。

明治の知識人も同じ心情だったのでしょう。

過去ログ:夏目漱石の宗教観とインターネット空間が無法地帯であること
「それから」に学ぶ「喰うために働くということは悪徳である」ということ



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表現者は常に反逆者(アウトサイダー)であるという事実に目を逸らすな 
Tuesday, June 23, 2015, 12:24 PM
6/23 曇 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル

昨日の朝日新聞に山下清の解説がありました。そして頁をめくると漫画家でタレントの蛭子能収(えびすよしかず)が載っていました。
どちらも独りで群れないという信条を貫いているところが魅力となっています。

美術ではアウトサイダー(outsider)と呼ばれているのだそうです。
アウトサイダーを辞書で引くと、部外者、門外漢、競馬では勝ち目のない馬ということ。

近代において芸術はアウトサイダーにより発展した



これが美術を鑑賞する上で重要なことです。

先日、ピーター・ドラッガーの水墨画コレクションを鑑賞してきました。ドラッガーは室町時代に日本のルネサンス(芸術復興)の動きを見いだし、室町時代と江戸時代の文人画を重点的に蒐集しました。

文人画とは天皇や将軍のお抱え絵師ではなく、市井の町人や武士がフリーランスの絵描きとなって描いたものを指します。
いわば正統から離れたアウトサイダー達の描いたものが文人画というカテゴリーになります。

500年前の室町美術がそれまでの仏教美術から頸木を解かれて禅宗、そして独自のトロポジー(幾何学)的な要素が加わっていったとドラッガーは解釈していきます。

そして江戸時代の文人画は幕府への反逆精神の発散として豪商らに愛されたのです。ドラッガーも同様に愛でました。

ヨーロッパでも芸術の流れは同じです。
抽象画はわかりにくいと敬遠される方も多いでしょう。

シュールレアリズムでよく知られているのは、溶けた時計といったモチーフで知られるダリでしょうか。
またピカソはキュビズムという三角と四角のみで表現する手法を多用しました。

異端であることは一目瞭然です。
その異端の美術を日本で絶賛していたのが、森鴎外でした。
西洋近代美術は反逆精神の発散によりものだと見抜いていました。

コンピュータ・グラフィックス(CG)の祖先はピカソである



皮肉なことに、キュビズムは現代のコンピュータ・グラフィックスでは重要な手法です。ポリゴンという多角形で複雑な立体物を表わして座標データを動かすことで、歩いたり飛んだりする動きをだしているのです。

初期のコンピュータ・ゲームはモアイ像みたいな粗い表現しかできませんでしたが、いまでは描画能力が向上してとても滑らかになりました。

セガサターンとかプレイステーションで遊んだことはありますが、格闘ゲームやカーレースゲームのおもしろさよりも、キュビズム(ポリゴン)に愉悦を感じていました。ピカソが生きていたら自分の業績だと感激したでしょう。

日本のアウトサイダー美術と西洋のアウトサイダー美術は融合した



浮世絵の影響がモネなど印象派とよばれる画家たちに影響を与えたと言われますが、なんのなんの抽象画にも影響が色濃いと私は捉えています。

たとえば、もし私が日本の現代美術の代表を挙げろと言われれば、まよわず三越の包装紙を挙げます。
三越の包装紙のデザインは、目立ちすぎず派手すぎず、心を平穏のままにする絶妙さに感心していました。元図は現代美術家の猪熊弦一郎で三越のロゴはなんとやなせたかしによるものです。(残念なことに現在は意匠が変わってしまったらしいです)


西洋の代表作を挙げろと言われれば、私はピエト・モンドリアンを挙げます。
どちらも絵画というよりもデザインの妙です。空間を分けるという概念は日本の水墨画の表現方法そのものです。モンドリアンはそれをさらに先鋭化したものです。

緻密であり大胆、これは1900年(明治〜大正)の頃に西洋絵画と日本の水墨画・浮世絵が融合した結果ではないかというのが近代美術の私の鑑賞点です。

山下清が出てきたので、もう一人の巨匠に触れると、ゴッホに影響を受けたと言われる版画の棟方志功です。やはりどちらもアウトサイダーです。

記事では椹木野衣(さわらぎ のい)という美術評論家・多摩美の教授が日本を含む非西欧圏の美術はアウトサイダーであると述べていますが、実際はアウトサイダーが美術界を牽引しているということを認めています。

この取材した記者の記述がわかりにくいんだよなあ(笑)

過去ログ: 室町時代が日本のルネッサンスであった(ドラッガー・コレクション)
カトリックとプロテスタント、どちらが原理主義(またはカルト)に陥りやすいでしょうか?
幕臣たちの明治維新 徳川幕府は新政府よりも劣っていたのか?
数学的才能は思想のみならず芸術や音楽の基礎である
神から離れることで自由になれる国と共にあることで自由になれる国
古代から「怨念」「穢れ」「祟り」に支配されているわが国
明治に入ったのは西洋技術とそして神学論だった
「明治」(人民を明るく治めるという意味)はメーソン思想から取られた?
なぜ副島隆彦はルネサンスに注目しているのか(宗教と政治という不滅のテーマ)



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「夢」はいつから抱くものになったの? 「夢」の濫用にもの申す 
Monday, June 22, 2015, 12:29 PM
6/22 曇 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル

誰もが小学校あたりに将来の夢なんてお題で作文させられた経験があると思います。

朝日新聞の連載記事を読んでいると、夢という現象にたいしての考えが時代で異なっていることがわかります。

神格性を帯びさせる目的で、夢の中で神仏からの加護があったとか、お告げがあったと言い伝えることがあったにせよ、

夢は中世までは娯楽であり、庶民の小咄のネタに過ぎなかった


ひとことで表せばそういうこと。

ここ浅草の門前では江戸時代のおとぎ話として、貸し枕屋があり、それを借りてうたた寝をすると夢では吉原の遊女をはべらかしたり、舟を浮かべてお大尽遊びにうつつを抜かすことができるというもの。

発想がドラえもんです。オチも夢で川に落ちてあっぷあっぷしてしまったというコミックそのものです。

このように江戸時代あたりまでは、空想を愉しむことが「夢をみる」という行為だったことがわかります。
江戸時代の小咄では「夢を見る者=ぼんくら(道楽者)」として嘲笑の対象であることが、その証左です。

為政者やリーダーが宗教的なお墨付きを得たかのように流布するため、夢枕に観音様がお立ちになられたとか、神仏祈祷でお告げがあったなどと利用されることがあっても、睡眠中の現象に過ぎないという現実的なとらえ方もあわせてしていたのです。

京の天皇や公家にに影で指示していたといわれる陰陽師(おんみょうじ)も、実態は神官であり、さらには数学者であったのです。天文観測や気象観測の専門家であったと言われています。だから江戸時代には陰陽師の夢占いの類は、権力に近づく手段だと見透かされていました。

私も占い師という人たちは大嫌い(笑)

明治以降に「夢」は願いや望み、志と同義になった



歌謡曲で「あなたの夢を叶えて〜♪」「未来へ大きな夢をもって〜♪」なんて陳腐な歌詞の曲がラジオから流れてくるたびに、へんな言葉遣いだなあと感じていました。

とにかく下手くそなジャリタレが歌う曲にはやたらと「夢」がでてきます。

なんでこんなに世の中「夢」が濫用されているのでしょうか。

1990年(平成2年)に公開された黒澤明の「夢」は黒澤が実際に見た夢を映像化したものということで、8話のオムニバスになっています。
原発が爆発して赤富士が噴火したという夢は、東北震災で一時話題になりました。

黒澤にとっても夢は過去から現在へのふり返りであって、そこには願望といった要素は見あたりません。
まさに夢というタイトル通り、過去から抱いていた恐れから、黒澤が見た夢です。

同じ日付には「神や仏を信じますか?」という読者アンケートが掲載されています。
1956人中「はい」が58%、「いいえ」が42%です。

だいたい6割しか神頼みをしないということは意外に少ないようです。
キリスト教圏の欧米では神の存在を信じるのは85%程度が普通のようです。

日本人の場合は、宗教宗派問わず、もっと大きな力(全能の存在)を信じる人が大半のようなので、42%が無神論者というわけではないようです。
無神論者なら初詣やお盆などは一切行いませんけども、そういう人たちは見る限りごく少数ですね。

20世紀になって理神論を「夢」と安易に置き換えた



理神論、つまり全能の神さまはいるという思想(無神論ではない)が20世紀になって日本だけで広がってしまったのです。
もしくは海外の影響でdream(ドリーム)を「未来を指す言葉」と勘違いして、理神論だけが換骨奪胎で広がってしまったのかもしれません。

「dream」に「夢」をあてたのは間違いだと思いますね



日本語の「夢」には空想とか「あり得ない事」という意味しかなかったのですから。

なぜか日本においては夢という言葉に理神論が加わって、「夢信仰」へと変貌してしまったのです。

たぶんキリスト教やイスラム教など一神教の国家においては

自分の夢に願望を入れたら非信仰者扱いされてしまう



キング牧師が黒人差別反対の演説で有名な「I hava a dearm 」と始めたことで、全米のキリスト教信者には衝撃を与えたことでしょう。

夢を見ることは勝手だろうけども、それがGODやJesusに代わって自分の理想を夢として<布教>したのですから。
これは牧師としては自殺行為であることをキング自身も自覚していたものと思われます。

聖書に書かれていない<自分の願望>を夢と称して、あたかも「夢」を信仰に加える行為と捉えられても仕方がないからです。
おそらく信心深い白人キリスト教徒達はキングの演説に違和感(もしくは強い反発)を抱いたのではないでしょうか。もしくは逆手にとられたと感じだでしょう。

夢は「あり得ない空想」であって、将来に導く言葉ではないのです。(黒澤明の夢では原発事故は残念ながら起こってしまいましたけども。)

無信仰の日本人においてはこれからも夢信仰はつづくでしょう。

新興宗教や自己啓発などでは、夢(願望)を叶えると喧伝していますが、無信仰の日本において咲いたあだ花のカルト宗教なのです。

夢を願望としてセミナーなどを開催している人や団体は、近づかない方がよいでしょうね。

私はリアリストですから「夢」に将来や理想などあるかと鼻白みます。
夢とは叶えるものであれば、それは希望・願望にすぎません。

夢想した願望はやっぱり夢でしかない(笑)



夢と称して願望をしゃべるのは中学生あたりまででしょう


過去ログ:良い夢は盗られるから口外してはなりませぬ


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Newtonの法則で銀河系の全質量までわかる!(数学の力) 
Saturday, June 20, 2015, 01:02 PM
6/20 晴 10時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル

昨晩のNHK教育「宇宙白熱教室」を観ました。宇宙物理学とはすごいものだと感心しました。
NHKの紹介サイト:http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/cosmology/index.html

次元解析という紙と鉛筆どころか暗算でも十分な桁数だけをおおざっぱに概算するだけの手法で、我々の銀河系の質量まで導き出せるのです。

20世紀初頭に銀河の距離と速度を計測したところ、宇宙は膨張していることが発見されました。(1929年 E・ハッブル)

どうやって測ったのか?

銀河は遠ざかると暗く見える(光は距離の二乗に反比例)ことと遠ざかる銀河の光は赤っぽくなること(スペクトルがドップラー効果で赤法変位する)を一つ一つ調べたのです。

そうすると銀河の移動速度がわかったのです。

H(ハッブル定数)=100km/sec/Mpc
(実数は70だが計算しやすいように100にまるめています。Mpcは100万光年の距離)

つまり100万光年の先にある銀河は毎秒100kmで遠ざかっているということ。この速度で宇宙は膨張しているということ。

ハッブル定数の時間と長さの次元をまとめると 1/10^10年

「10の10乗年」ぶんの1の次元ということ。この「10の10乗年=100億年」とは宇宙の年齢と等しい時間です。

物体が動いているならばニュートンの運動方程式「F=M・a」が作用し、それでM(質量)が算出できるからです。Fは力、aは加速度です。
そこから導き出される運動エネルギー(仕事量)は質量に最終的な速度の二乗に1/2を掛けたものになります。

(1)1/2×M(質量)×V(速度)^2 ・・・運動エネルギー

距離Rだけ離れた質量mと大きな質量Mのふたつの物体にかかるニュートンの万有引力の位置エネルギーの式は
(2)−G(重力定数)×m×M/R・・・位置エネルギー

物体の持つエネルギーは運動エネルギー(1)+位置エネルギー(2)を持っています。

E=m・v^2/2−G・m・M/R

■銀河の質量はどうやってわかったのか

デンマークのヨハネス・ケプラー(1571-1630)が惑星の公転速度の二乗は太陽の距離に反比例することを発見しました。その結果から(40年後に)ニュートンが万有引力の法則を導き出しました。

100年後に重力定数という微小な値を測定し、月の公転速度から地球の重さ6×10^24kgという算出に成功しました。
となると太陽は2×10^30kgと芋蔓で太陽系の質量が計算されていきました。

銀河の渦巻きの速度を観測したら、質量は計算できた。

2×10^41kg

銀河はだいたい1000億個の恒星と見積もることができました。

ところが銀河の恒星の公転速度を一つ一つ調べると、中心から離れると遅くなるはずなのにほぼ一定でした・・・

これが暗黒物質(dark matter)の発見へとつながっていくのです。

壮大な数字ばかりですが、数学の世界では銀河系の重さも測れてしまうということです。

そして新たな発見もされたというお話です。

過去ログ:「引力」ではない!「押しつけられる力」なのである(暗黒物質の正体)
まだまだ未知の物質だらけ (既知の物質は全体の4%)
ダークマター(エーテル)説をあざ笑っていた科学者出てこい!
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室町時代が日本のルネッサンスであった(ドラッガー・コレクション) 
Friday, June 19, 2015, 11:04 AM
6/19 霧雨 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル

千葉市美術館で行われているピーター・ドラッガーのコレクション展の紹介番組を観ました。
NHK日曜美術館 ピーター・ドラッカー 日本美術へのラブレター
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2015/0607/

雪村や白隠といった室町時代の水墨画が、それまでの中国由来の仏教美術から日本独自の人本位になったことをドラッガーは注目したのです。

そして14世紀イタリアのルネサンス運動と同じ時期に同じ芸術の展開点を室町時代の山水画、禅画に感じたのです。
ルネサンスは芸術復興運動と和訳されていますが、これだけでは意味がわかりませんね。

それまではカトリック教会による制約をうけた絵画しか認められていませんでした。宗教に背いた描写は許されず、背いた画家はもちろん依頼主でさえも処罰されてしまう厳しいものでした。

カトリックの弾圧に立ち向かったのがメディチ家です。反カトリックを表向きにはださずにフィレンツェの芸術家を支援してきました。パトロンという言葉の意味は「芸術擁護者」です。
銀行を営むメディチ家をパトロンとして、フィレンツェは芸術の町として花咲きます。そしてドイツ人のルターによる宗教改革、プロテスタント(抗議)運動とともに芸術復興運動は北へ北へと進んでいきます。
200年ぐらいかかってオランダに影響は到達します。レンブラントあたりの画家がルネッサンスの影響です。

夏目漱石は英国のターナーが大好きで、「坊ちゃん」でも松山の小島をターナー島と評して度々登場させています。
ターナーもカトリックの束縛から解き放たれたルネッサンスの影響を受けた画家です。

このように西洋芸術史にも詳しいドラッガーは、偶然日本の水墨画にも14世紀に大きな変革があったことを発見し、蒐集を始めたのです。

ドラッガーの経営哲学の根本「変革(inovation)」は画風の変化を敏感に感じる感性だったのでしょう。

やがて1960年代に経営コンサルタントとして成功して名声を得てもドラッガー夫妻は日本画のコレクション熱は冷めませんでした。

日本企業の指南に来日したときも必ず画商に寄って、禅の表現を堪能したとのこと。

ルネッサンス以降の西洋美術と室町以降の水墨画の対比



西洋は技法が注目されることに対し、日本画は描く人自身が価値である。

与謝蕪村ら江戸時代の文人画(南画)と呼ばれる山水画も集めるようになった。

文人画とは山水画に小さな人物を加えた構図の絵なんだとか。

縛られた身分のうっぷんを絵の中では自由奔放に描いてはらしたのです。

偽物が多い村上玉堂も偽物を掴まされることがなかったそうです。(ものすごい審美眼です)

アメリカでは日本美術の講義も行っていたのだとか・・・。それは知らなかった。

日本美術の多様性、画家の個人主義を終生称賛していた。

そして西洋と遜色ない印象派や抽象画があることを世界に紹介し続けたのです。

ということで今から千葉市美術館に行ってきます。
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2015/0519/0519.html

(追記)千葉市美術館に行ってきました。
けっこうな数をコレクションしていたのですね。それも「なんでも鑑定団」で代表作として紹介されている銘品ばかりです。
室町時代の水墨画ばかりではなく、江戸時代の文人画(武士や僧ではなく儒者や中国古典の研究者が描いた画)も好んでいました。

室町時代の水墨画はトロポジー(幾何学)的な趣があり、現代風に言えばデザイン的なのだそうです。全体をふくめてデザインで完成させているところは西洋絵画にはないのです。

また江戸時代の禅宗の絵(達磨図)などは「体制への反逆精神」を表しているので、同時期の西洋美術と共通していることもドラッガーは指摘しています。
江戸時代の美術は芸術家達(武士や僧、市井の絵描き)にとってははけ口であり、現実逃避の手段だったのだと指摘しています。

ドラッガーは書斎にかけて当時の作者にシンパシーを感じていたそうです。

千葉市美術館は北斎や広重などの浮世絵や美人画も展示されていました。こちらも見事なものでした。

この美術館は昭和2年の旧川崎銀行の建物をそのまま保存しており、とてもよい雰囲気の市役所と併設された美術館です。
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いままでCTやX線検査の被曝基準はなかったのです 
Thursday, June 18, 2015, 02:02 PM
6/18 曇 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル

放射線コワイコワイひぃぃぃ〜派が相変わらず福島の避難地域解除の政府発表に文句を言っております。
政治駆け引きでで動員された社会活動家と
本気でわずかな放射線が悪影響をおよぼすと信じている統合失調症(いわゆる気違い)の人たちでしょう。

インターネットにかじりついていたり、霞ヶ関でデモ行進をしたりする人を見て思うことは、煽動に踊る暇な人たちだなということ。
安全保障関連法案にせよ、普天間基地問題にせよ、単純にYES/NOで決められるものはないことを、はぐらかして問題点を矮小化するのでしょうか。

そして一方的な他人の意見(思想・思考・信条)を受け入れてしまう行動を私にはとても理解できません。

国家問題に関する社会運動に関わって碌なことはありません



なぜなら国家規模(国政)に関する問題は国家間の思惑や宗教や民族対立、社会主義思想(国民統制)、巨大資本の操作といった背景があるからです。

そんなものに市井の人が加わったところで、将棋の歩であり、示威行為(デモ)に利用されるだけです。
暇人か精神異常者しか付き合いきれません。だからすぐに内紛(内ゲバ)を起こすのです。

日米安全保障条約という軍事同盟が締結されている限り、集団的自衛権(同盟国家への攻撃に対する反撃)は当然であり、そもそもそのためのもの。戦争に巻き込まれる、戦争になるというのは安保条約締結の日から常にその状況です。反対派は何を今さら子供のような理屈を言っているのでしょうか。

独自戦力+核武装による安保条約の破棄をせよというのなら話がわかります。

自分たちで国を護ることは拒否して、兵力は持たない、兵器も開発しない、米軍出ていけとわめいている人たちは何を考えているのでしょう。

私はリバータリアンですから、日本の真の独立を望んでいます。

だから米軍基地が国内にあることは気分的にはよくないのですが、自国を護る意識さえ統制抑圧されている状況下、実際に米軍にべったりと依存していますからどうしようもなりません。

平和を愛するからこそ、日本はちゃんとした他国から干渉されない軍を持たねばならない。生命線であるシーレーンを守るのは日本の艦船しかないのです。

日本が正式に軍隊を表明すると世界は安定する



この逆説な平和主義をかつてから唱えていたのが小室直樹です。こういう深謀遠慮(しんぼうえんりょ)を発達障害者達は理解できないのだろうなあ。だからこそ頭が悪いと自覚している私を含めた人は、国政問題に少しでも関与してはならないのです。

自分への影響だけを心配する、関心を寄せる。

これをエゴイズムといいます。リバータリアニズムではエゴイズムこそ人間の尊厳だと考えられています。

さて新聞記事に病院でのCTやX線検査の被曝基準ができたという記事です。やっぱり記事はお気に入りの朝日新聞大石ゆりさんでした(笑)

CTやX線は診療報酬点数が高いから病院でも医院でもやりたがる



高価な機械を遊ばせておくわけにいかないので、病院経営上はひっきりなしに使いたいのです。一億円もする機械の元を取るためには一日に何十人もの撮影をして稼がねばならないという事情があります。

だいたい一回の検査で700〜1000点が健康保険に請求されます。1点10円換算ですと7千円〜1万円ですね。これに造影剤とかが加算されると3000点(3万円)ぐらいが病院の売上となるのです。

年間X線装置一台で数千万円、数億円、CT装置一台で2,3億円以上の売上を稼ぐのです。

医療機械というのは病院経営にとってもとても美味しいのです。しかも熟練者はいらない、専門学校を出たばかりの臨床検査技師で事足りるし、デジタル化されているのでボタンを押すかマウスでクリックするだけ。消費するのは電気だけという手軽さもあります。昔のように現像室だとか乾燥設備だとかがいりません。デスクトップコンピュータを別室に置いておけばよいだけです。

だから人口1万人に一台CT装置がある先進国で一番の多さなのです。

記事によると、日本人の年間平均医療被曝量は3.8mSv、X線検査一回の被曝量は1.5mSvです。

一度に受ける医療被曝は福島原発内での作業員の千倍万倍です



なんたって銀塩フィルムが感光し、半導体が発光するぐらいですから。

そんなことも知らないで、原発の放射線だけはコワイコワイひぃぃぃ〜と騒いでいる人たちは滑稽ではないでしょうか。

あちこちが痛いからと日課のように病院に行って、勧められるがままX線だCTだと検査されてきて、なんとなく気が晴れたと思っているご老人がたの姿は、これぞジャパニーズ・ジョークです。

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ビタミンCは心臓疾患のすべてを改善する (NHKためしてガッテン) 
Wednesday, June 17, 2015, 09:09 PM
6/17 晴 8時 浅草での空間線量は17ベクレル/立法メートル

今日は朝から郊外に出かけておりました。汗まみれです。
電車はクーラーが効いて快適ですが、居眠りでかえって調子が狂います。

帰宅時にNHK「ためしてガッテン」をやっていたので、片耳で聞いていました。

ビタミンCは美肌効果、風邪予防に役立つと言われていますが、実際はそのような検証結果はないとのこと(これは知っていた)

しかし体内の活性酸素を中和する効果は実験で検証されている。
これは心臓疾患の死亡率を1/3にしたのは血液中の活性酸素を消し去る効果によるもの
が最新の研究で判明した。


NHKでもビタミンCの延命効果をPRしだしましたね



ビタミンCは採り方次第でおしっことして流れてしまうが、食後に摂れば体内に留まる時間が多くなるので、ビタミンCによる体内での活性酸素の無害化が一層期待できる。

またビタミンCを含む野菜(例では小松菜とブロッコリー)は、少量の水で蒸すか冷凍でおひたしにしてあげるとビタミンCが流れずに済む。



ビタミンB1は国家戦略として加工食品(インスタントラーメンなど)に添加されている。
学校給食では法律でご飯に一日必要量の40%を目安に添加している。

いまでも脚気患者は2000人/年いる



ビタミンKは骨を固くする作用があり、赤ちゃんは産まれた直後はKgs不足している
ビタミンKの多い食品は納豆で一パックで成人一日の必要量の大部分をまかなえる。
しかも腸内で納豆菌がKを生産してくれる。また緑黄色野菜にも多く含まれている。

過去ログ:「断糖のすすめ」(炭水化物を減らすと身体は激変する)
アメリカの肥満・がんの原因は糖分だと告発するジェイミーオリバー
これからは「摂らない」という治療が主流になるだろう
若返りにも癌退治にも効く糖質(炭水化物)断ち
電車に乗れば避けられないインフルエンザ
ビタミンコワイコワイひぃ〜(がんリスク17%上昇)
ビタミンC化合物はあなたを老け顔にする!
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新型パワー&スリムベルトの商品開発始動! 
Tuesday, June 16, 2015, 11:44 PM
6/16 晴 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル

現行のパワー&スリムベルトは僅少となっており、ベージュ色はSとMを除いて品切れとなっております。
お問い合わせを頂いておりますが、まことに申し訳ございません。

パワー&スリムベルトはすべて自社開発のオリジナルです



布やゴムなどすべて特注品なのです。既存の素材はベルクロ(マジックテープ)ぐらいかな(笑)
ところがそれが一番大きな問題で、追加で小口で製造できないのです。

また改善点もいろいろあるので、素材から見直していきたいと思います。

縫製会社と協議を始めたのですが、開口一番当社のベルトは素材が一般的ではないので難しいとのこと。なんとか布問屋さんらと協力して新型のP&Sベルトを作っていきたいと思っています。

ただ再びゼロからの出発です。たかが腰ベルトですが、これ見本、んじゃ来週サンプルもってきてね、なんていうわけにはいきません。

何十回と打合せやサンプルを繰り返して、やっと最初のロットが出来上がるのです。
すべて国内生産ですから、ちょっと期待したいのですが、日本国内でアパレル関係をつくるのは努力よりも、運か奇跡がないと難しい。

関係者のがんばりに期待しております。そして更によいモノをつくってやるという私の気合だけです。ご期待下さい。




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般若心経(Heart Sutra)262文字の世界 (最新素粒子物理学との共通点) 
Monday, June 15, 2015, 12:14 PM
6/15 晴 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル

昨日の続きです。NHK教育 100分de名著「般若心経」を佐々木閑(ささきしずか)氏が解説されています。
NHKの番組サイト:100分de名著「般若心経」
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/19_heart-sutra/

サンスクリット語で般若(はんにゃ)とは智恵という意味です。

正式名称は般若ハラミタ経といって、大乗仏教の中の一つのお経で、ダイジェスト版です。
大乗とは「寄り集まり」のこと。大船にたくさんの人が乗っているというイメージで、大勢の僧が加わり完成されました。

その教典で唐の玄奘三蔵が漢文に翻訳して持ち帰ったのが般若心経です。

翻訳といっても音も真似た(音とリズムに意味があるとされた)



人も物も存在は、他人がそのように認識しないとなんだかわからないモノに過ぎない
(物理学者が提唱した「シュレディンガーの猫」と同じく、概念が認識されないと、その物・状態は存在しないということ)

これが「空」という概念です。

ブッダが提唱した概念ではないらしく、ブッダ死後にどの僧侶かが提唱した概念らしいです。

色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)

色(=肉体)は実態がない。すなわち肉体を構成する物質は突き詰めれば・・・文字でも絵でも表すことができない。存在するということが認識されているだけだという意味。

逆も真で、空即是色とはそのまま素粒子物理学です。

物質が集まれば引力が生まれる。また物質とは空間の震え(ひも理論)であり、光の速度だけが要素です。

我々の生きる世界は距離や重さ、時間という尺度があります。難しく言えば長さと重さと時間の次元に縛られているといえます。

ところがアインシュタインが「時間は光の速度で置き換えることができる」ことを発表し、素粒子の世界は時間という概念が消えました。時間という概念がなくなれば速さという概念も消えて、距離という概念も消滅してしまったのです。

さいごに重さ(引力)も光の速度で置き換えられることがわかってきたので、素粒子を突き詰めると光の速さしか関係しないのです。

光とは物質的な振る舞いもできますが、空間に伝わる「波」です。(電磁波の一種)

無から物質は生まれ、物質は突き詰めれば無である



見る物・触る物・味わう物・欲望・生死すべては突き詰めれば「無」から生じているのだということ。

時間も距離も重さもない世界が無の世界

これをインドの坊さんが死後の世界(涅槃:ねはん)と考えたのでしょう。

ブッダが提唱した八正道(はっしょうどう:煩悩を消し去る生き方の手本)を般若心経は否定しています。すなわち無欲と煩悩まみれの境界などないし、そもそも違いはないということ(笑)

これが大乗仏教のキモですし、富裕層に受けた理由です。

般若心経では、いくら修業したところで智恵も悟りもこの世はすべて未完なのだということを思い知れという結論です。

(人助けで)心の安らぎを求めて修業を続けている(修行僧の)菩薩の生き方を手本しろという教え。

般若心経は「空」の力を信じることが「智恵の完成」だとしたので、何度でも呪文として口ずさめるようにしたのです。

ただ時が経ち、日本では

ぎゃーてぎゃーて、はーらーぎゃーて、はらそうぎゃーて、そうじんそわか

が魔除けの呪文として愛唱されてきました。唱える行為だけで良しとされたのです。もしくは写経を奉納することです。

予備校の講師がなんでか、お地蔵さんの前を通るときのや、仏像を拝むときの呪文をなぜか授業中に余興でよく話していました。
信心深い婆さんに育てられたので、そういう習慣が条件反射的に染みついてしまったのだとか。

道中地蔵さんの前を通るときは「おんかーかーべーさんまーえいそわか」と必ず唱えろと言われていたので、いまでも何となく地蔵を見かけると口ずさみます。意味は忘れたし興味なし(笑)
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信仰とは他力本願のことだが、ブッダは否定した(釈迦仏教と大乗仏教の違い) 
Sunday, June 14, 2015, 12:26 PM
6/14 曇 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル

NHK教育 100分de名著「ブッダ最後のことば」が深夜に再放送されていたので、それを録画しておきました。
この番組はとてもためになります。知らないことばかりです。「ブッダ最後の旅」(中村元なかむらはじめ)を元に佐々木閑(ささきしずか)氏が解説されています。
NHKの番組サイト:http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/42_buddha___/

簡単に仏教を説明すると
・釈迦仏教は自己鍛錬により苦しみを克服して涅槃(ねはん)に辿り着け
・大乗仏教は未知なる力によって救われるという教え


日本で仏教といえば大乗仏教を指します。
涅槃とは輪廻(天・人・畜生・餓鬼・地獄)のサイクルから離れて平穏な死の世界に居ることです。

なぜ大乗仏教がインドから日本にまで伝わったのかというと、大乗仏教はインドの貴族・金持ちといったカーストの上位の階層に受け入れられたからです。古代の権力者たちには都合が良かったからです。(副島隆彦談)

一方でインドやカンボジアやタイでは修業や托鉢が主な活動の釈迦仏教が根強くある。貧困や圧政に苦しむ庶民・貧乏人が支持して存続してきました。

2500年前、ブッダが死の間際に遺した言葉を記した経典が涅槃経です。ブッダ亡き後もサンガという信仰小集団が維持されていく指針をまとめたものです。

釈迦はリーダー亡き後の組織(集団)の維持を信仰に基づいたものにしたのです。

ところが

釈迦(ブッダ)の偉いところは他力本願を徹底して排除した



ここが釈迦仏教とその他の宗教の違うところです。

信仰とは元来、他力本願そのものです。我々は神もしくは神がかりの教祖や救いを求めることが宗教そのもののように感じますが、釈迦は自分と属する信仰集団で解決していけと説きました。「自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)」というそうです。
(自分の島を自分で照らし、法(ブッダの教え)を拠り所にしろという意味)

ブッダは宗教家ではなく思想家(哲学者)であった



集団論を考えながら死んだということ。
そこにはカリスマや偶像崇拝はないのです。釈迦仏教には修行(自己鍛錬)とサンガ(信仰者の集団)での議論しかないのです。

かたや日本の仏教は大乗仏教が飛鳥時代の頃に、朝鮮半島経由で入ってきました。拝んで未知なる力にすがるというカルト化した仏教です。その対立が蘇我入鹿(既存宗教)を殺害した中大兄皇子・中臣鎌足(カルト仏教信者)による大化の改新という宗教対立によるクーデターです。

ブッダは戒律により集団を維持せよとしか教えていません。戒(いましめ)とは道徳であり、律は組織・集団維持のための智恵をまとめたもの。ちいさなことは食事中に音をたてるなといったものから、人を殺したら仏教信仰集団からの追放といったものまで多岐にわたっているそうです。しかしそれはそれぞれの信仰集団(サンガ)での議論によって定められてきたものです。

仏教の戒律には妥当な根拠がある



イスラム教・ユダヤ教、キリスト教にも戒律がありますが、根拠が不明で理不尽なものも他宗教からみれば見受けられます。
とくにイスラム教の女性に対する戒律は現代社会では同意されないでしょう。

ところがブッダは一方的な<上から目線>の戒律を嫌いました。かならず老人ら経験豊富な人たちを交えて議論するように諭しました。

ブッダを敬うのではなく、遺した律のみを尊重するように言い残して死にました。

知らなかったなあ

面白いことは、サンガ(僧侶集団)を末永く維持のためには「年功序列」を徹底させました。一日でも出家が早い僧侶には尊者と呼べということ。

ブッダは平等主義を勧めたが、組織論は年功序列を徹底させた



能力主義は権力闘争がかならず起こり、やがて組織が分裂するからです。組織の目的は仏教を永続させることだからです。

ですから出家の早い遅いだけで(能力に関係なく)階級を区別させたのです。

ブッダは宗教家でありながら、希代の経営コンサルタントのような人だったのですね。

平等主義を実力主義と同意にしてはいけない


組織、ひいては国家が分裂して弱体する結果になるとブッダは予想していたのです。

あ〜あ2500年前の叡智がまったく役立っていないことに驚きます。
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夏目漱石の宗教観とインターネット空間が無法地帯であること 
Friday, June 12, 2015, 12:39 PM
6/12 晴 10時 浅草での空間線量は10ベクレル/立法メートル

江戸中期の儒学者である平田篤胤(ひらたあつたね)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)、長州の思想家・熊沢蕃山(くまざわばんざん)らによる(儒教)思想は、幕末期に国学(儒教を元にした天皇を神格する思想)として注目されて尊王攘夷思想に結びついていきました。そして反幕運動のひとつとして徳川幕府が保護してきた仏教の排斥の気運が強まります。

それは江戸時代以前のはるか前奈良時代から寺院には地域住民の戸籍管理を代行させていた慣習を、江戸幕府でも活用していたからです。寺院は地域の檀家からの収入で特権階級でした。

なんたって江戸時代までは正確な人口など調べようがなかったから、寺に管理させるしかなかったのです。そのかわり寺にも商売や収穫の一部を得ることを認めたのです。

寺に戸籍がない人は「非人」と呼ばれました


非人とは農民のように土地に縛られることなく、行商や芸能を職業にした人たちです。
寺はそういう人たちに地域で商売や興業を行うときは寺銭を要求していました。また通るだけでも関所を設けて通行税を要求していたようです。

僧侶は今で言う警察と役場の役人のような存在で、堕落した僧侶は村人から嫌われていたそうです。僧兵は戦国時代までは普通に存在していたのです。

寺から商売(座・市)の関税・許認可権益を取り上げたのは織田信長ですね。(楽市楽座)だから仏教特に一向宗(浄土宗)に嫌われ対立した。信長も秀吉も一向宗勢力には手を焼いたのです。のちに秀吉は刀狩りで武器を取り上げ、一向宗の総本山跡に大阪城を築きました。

明治となり廃藩置県による中央集権制度が確立すると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、寺院の数は1/3になったそうです。村民らのそれまでの地域の権力者で僧や寺院への怒り憎しみで、多くの文化財は叩き壊され、燃やされたと聞きます。

伊豆には鎌倉幕府時代、奈良の仏師による見事な仏像が遺されています。でも地元の言い伝えによると明治の廃仏毀釈で、数多くの仏像が徹底的に叩き壊されたのだそうです。

2年前に函南(かんなみ)の仏像博物館ができたので見学してきましたが、運慶や快慶の系統の仏像がそれまでは崩れかけたお堂に放置されていたり、部落の倉庫に放り込まれていたのだとか。それを集めて保護しようという動きがやっとでてきたのです。

子供の頃、村祭りの時にお堂に転がっている仏像を雑巾で拭かされたり、川に浸けて洗わされたとお年寄りが話されていました。
戦前、昭和初期の頃は、重要文化財という認識が全くなく、檀家制度が廃止されたために朽ちた寺と遺された埃だらけの仏像という認識しか村人にはなかったそうです。

で多くの仏教美術は破損したり紛失していったのです。もったいないことです。

過去ログ:伊豆には運慶ら奈良仏師の仏像がたくさんあります

このように幕末から明治にかけて仏教の排斥が都市部ではなく農村部でも顕著に行われていたと言うことです。

夏目漱石「それから」は明治42年ですから、大正に年号が変わる3年前です。

この頃になると欧米(イギリスやフランス、オランダ、ドイツ、アメリカ)の知識層と変わらない宗教観、すなわちユニテリアニズムが日本にも形をかえて蔓延しています。

科学的な思想(=ユニテリアニズム)こそ富国強兵のための思想



知識層・権力層は近代思想(=宗教色が薄い合理主義)の普及を教育制度と教育機関の整備で努めました。

夏目漱石や森鴎外らも無信仰と記していますが、この当時の知識人の宗教観はけっして無神論者ではないのです。神社のお参りや寺へ参拝しても信者ではなく、傍観者に過ぎないのです。いまでもほとんどの日本人が同じ感情ですよね。

夏目漱石「それから」の主人公・代助は、30過ぎでも結婚を勧める父親をかわして、あいかわらず親と兄に寄生する生活をしています。これこそインテリの生活だとばかり、働くこともせず思想に耽る日常を送っています。その一節は漱石の宗教観が良く表わされていて感心したので転載しておきます。

 その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。その不安は人と人との間に信仰がない原因から起こる野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のために甚(はなは)だしき動揺を感じた。彼は神に信仰を置くことを喜ばぬ人であった。また頭脳の人として、神に信仰を置くことのできぬ性質(たち)であった。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じていた。相互が疑い合うときの苦しみを解脱(げだつ)するために、神は始めて存在の権利を有するものと解釈していた。だから、神のある国では、人が嘘を吐(つ)くものを極(き)めた。しかし今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄(くにがら)である事を発見した。そうして、彼はこれを一(いつ)に日本の経済事情に帰着せしめた。

信仰深い国の人は<嘘つき>ばかりである



しかし警察官がスリと結託したという新聞記事を読むことで、信仰が消え去った日本においては、嘘に対する背徳意識(倫理観)も無くなっていることにも唖然としているわけです。

夏目漱石文学の魅力は、信仰が欠落した社会への虚無感



漱石の門下生で代表的な芥川龍之介などにも引き継がれています。門下生はたくさんいますが浅学だから知りません(笑)

ユニテリアニズムという創造主(ゴッド)の存在とキリストの存在だけは認めるという、科学的な宗教観に基づいた西洋の近代思想を無条件に取り入れた明治期の日本人知識層。

それの風潮に対する漱石の痛切な批判でもあり、おそらくイギリス留学から抱えていた戸惑いです。

倫理観の崩壊はインターネットの世界がそのものです



自由な新天地だと思われているネット空間は、信仰の無い結びつきです。

ですから漱石に言わせると「ネット詐欺が横行するのは当たり前の事象」なのです。

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