Friday, July 10, 2015, 02:04 AM
このところ毎日聞くフレーズです。「命の尊さを伝えていきます」とか「尊い命を守りましょう」とか
なんでもかんでもイノチ、イノチ、イノチ・・・
もう少し頭のいいフレーズないもんかねぇ。
そりゃ子供を産んだお母さんが我が子の命を守りたいというのは、本能だからわかります。
ただねぇ、他人の命まで尊いなんていう、その大雑把で飛躍した考えを本気で信じているのならば、頭がおかしいんでないのか?
自分の親族が戦争で犠牲になった、軍によって死に追いやられたという恨みなら同情します。
だからって陳腐な台詞「尊いかけがえのないイノチを守りましょう!」なんてことを白々しく吐く人物は頭から信用しません。すっぱりと旧軍人が憎いと言えばいいこと。
政治家なら、「だから票を頂戴」という本音を逸らすための方便です。(誰もが気づいているのでしょうが)
また、イノチ=日本人の命という意味であれば民族主義者扱いですが、そもそも右翼は命が大切などという台詞は吐きません。
岩手で連絡ノートに悩みを書きつづった中学生が電車に飛び込んで自殺したことで、担任教諭の無関心さが問題となっています。
この関心を示さなかった担任教諭の対応が現代日本の教育の本音なのですよ。
死にたいとか、死にますと宣言されても、ナニも言い返すことができない。
せいぜい「イノチはタイセツに」とか「イノチをソマツにするな」としか言えない。
他人に生き死にを指図されることなど誰でもまっぴら御免です。
死にたいという子供に生きろと言えるのは、育てた親(産んだ母親)以外にいない。
学校で命の尊さを学ばせる・・・噴飯物です
そのまえに生きのびる術(survive)を教えているか?
そして死に方を教えることができるのか?
死に方を教えるのが真の教育なのです
三角関数や英語の文法なんかよりも、もっと大事なことが日本の教育者達(それを統治する文科省と教育委員会)にはすっぽり欠落している。お前らみたいなバカから学ぶことなどひとつもねえよ。
喧嘩はダメよなんて女の腐ったような人物がオカマに諭しているような場所で、ナニがイノチの尊さだと片腹痛い。
官僚もオカマ野郎揃いで、文科省認定の公認オカマみたいなフニャフニャなのが「イノチハタイセツニ、トウトイんだからぁ」なんて呪文ばかり繰り返すだけのニッポンの教育現場なんて、オカマ養成所みたいなもんだ。
生き延びるためのパワー(power)を少しも与えられない日本教育
ここでいうパワーとは腕力や屈服させる智力のことです。
昔の武将と呼ばれる人たちは、真剣に学んだのです。何を?
生きのびるための術を。(友好関係構築や脅し、腕力、懐柔策・・・)
そして仏教にすがり祈祷したのです。信長も秀吉も家康も。
仏教思想ではイノチは(無条件で)尊いなどという考えは一切無い
もちろんキリスト教でもイスラム教でも。
信仰する魂は尊いという考えはあっても、肉体などは現世の借り物という考えです。
秀吉が刀狩りをするまでは、寺には僧兵という兵隊がおりましたし。仏敵は殺して上等、命は信仰に捧げるものであるという命知らずですから、武士と死生観が似通っているので、武士同士よりも難敵であったのだとか。
「能」は「死後の世界」を表したものなので武将達は心を躍らせて鑑賞した
首を刎ねられる、切腹させられるかもしれない、日々がサバイバルである武士達にとっての関心は、死んだらどうなるのということ。
仏教では涅槃(ねはん)に行ってお仕舞い、あとは肉体を離れた魂だけで過ごすだけという考えです。信長が能を好んだのも無信仰でありながら死後の魂の存在を強く意識していたのです。
オレはこういう考え方は好きですよ。刹那を生きるとはこういうことです。
話を戻すと、テレビ、新聞でやたらと「イノチのタイセツさを後世に伝えていきたい」とか「イノチの尊さを子供たちに学ばせたい」とかクサイ言葉をよく耳に、目にします。
そんなこと絶対不可能だと思ってますし、そもそも支配層にとってイノチなんてタイセツでも尊くもないものだから。
東洋思想では命とは勝手に生えてくる雑草と同じ
そんな寝言を垂れる暇があれば、そこらの公園で裸で寝ている浮浪者や山谷のアル中などに、自分が衣食住を提供してやればいい。
岩手の自殺した中学生の担任の態度がすべてを表しています。
教育者だ、聖職者だなんだとか言っても、地方公務員の末端ですから。
子供が自殺するたびに、文科省の役人1人の首を刎ねるようにしたら、文科省も目が覚めるでしょう。
その配下の教育委員会も、少しはイノチイノチという寝言、戯れ言をいうことを控えるでしょうね。
スタンリーキューブリックの「フルメタル・ジャケット」の海兵隊ブートキャンプが公教育に必要とは思えませんが、まずは自分が生きのびるために真剣に取り組ませることを考えさせないとだめです。
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Wednesday, July 8, 2015, 11:59 PM
7/8 曇のち雨 19時 浅草での空間線量は11ベクレル/立法メートル
あいかわらずアルバイトしてます(笑)といっても近所のお店番にすぎませんけど。
同じ店番のアルバイト君は大学四回生で大学院へ進学予定。
そのひとときの合間に小遣いを稼いでいるのだとか。
いいねえ、ひさしぶりに若い世代とだべることができる。
工学部で機械工学を専攻しており、材料工学(昔は冶金学といった)を修めているのだとか。
私も似たような専攻だったので、ちょこちょこと質問をすると、専門家(professional)気取りで鼻高々に説明してくれます。
大学院へ進学を予定しているだけあって生意気な態度だなあと内心苦笑しながら話をあわせておきます。
おそらく向こうも、レジ係のおっさんが、やたらしつこく食い付くなあと思っていたでしょう。
ついつい年配者面してみたくなりますが、気を悪くさせたくはないのでもっぱら聞くことに専念しました。
ホントいうと内心は
大学のお勉強・研究なんて実社会にでれば三ヶ月もあれば習得できる
自信満々の顔つきなので、何も言いませんでしたが、はたと気づきました。
技術屋(エンジニア)の悪い癖というか性根なのでしょうか、習った知識や本の知識をまるで自分が築き上げたかのように錯覚してしまうことです。
たとえば現在、自動車でも飛行機やビルまでも、天気予報からSPEEDIとよばれる放射能汚染予想図などコンピュータシミュレーションで広く産業全般で用いられている有限要素法(FEM)という計算手法。
二〇年三〇年前には限られた人しか触れなかったスパコンレベルとなった今のPCは、それこそ自動車一台丸ごと、飛行機丸ごと計算させることも不可能ではありません。
昔は計算処理もメモリーも追いつかなかったので、自動車のバンパーだけとか、タイヤの一部断面だけとか、翼の付け根だけ、それもすごく粗い概算でしかだせませんでした。
限られたリソースでなるべく単純化して、まあまあ許せる範囲の誤差で計算させるのが技術者が頭を使うところ。
今は円周率の計算もお金をかけたコンピュータ能力で力ずくでやってしまうようです。
現代の工学理論はほとんど二〇世紀初頭に考え出された
気象予報や建物の強度計算、はたまた地震波の伝達などなどで使われる有限要素法(FEM)は第二次大戦前に確立した計算手法です。
大戦中にコンピュータが日本にはとうとうできなかったので戦艦大和の設計を何百人もの算盤の達人を体育館に並べて、人海戦術で計算させたのです。理研にはコンピュータの試作機らしきものはあったようです。
有限要素法(FEM)は大戦では原爆の爆縮のシュミレーションに用いられました。その計算をしたローレンスリバモア研究所はFEMの聖地と計算屋さんからは崇められていることも知って置いた方がよいでしょう。そこでつくられたソフトウェアがNASTRANという世界中の設計で使われている計算ソフトです。
みなさんのクルマについているカーナビだって経路探索はオペレーションリサーチ(OR)の「クリティカルパス」という数学手法が基礎となっています。これも第一次大戦後に、兵力や武器弾薬の効率的な補給、配分をどう解決したらよいかという命題の解決策として考え出された技術です。
零戦だって翼形状はしっかりした流体理論で計算された物です。適当に翼を貼り合わせたわけではありません。堀越二郎ら当時の航空機設計者達は手計算してきたのです。
それが五〇年後、六〇年後にコンピュータの登場で、誰でも瞬時に結果が表示できるようになったに過ぎません。
それをさも自分が切り拓いたように話しているので吹き出しそうでした。
技術屋は先駆者たちの仕事の積み重ねで自分がいることに無頓着
コンピュータプログラマーなんてその最たるもの(笑)
まあ過去の余韻に浸っている暇もないほど、新技術を先駆けてやらなきゃいけない因果な職業だから仕方がないかもしれません。
コンピュータもプログラミング言語も、インターネットといったインフラ・・・それらが一朝一夕でつくられたものではなく
少しづつ少しづつ改良されて今日があるわけです。
ところが二流の技術屋さんってそれが水か空気のように感じていること。
そして自分の世界が、世間からずっと先端にいると、自己陶酔してしまいがちです。
日本の理工系学部の指導者がほとんどこんな輩のように感じてます。何でそう思うのか?
人間的な魅力がぜんぜんないもの(爆)所詮は特別公務員ですから。
大学生君は、数年後には理研で研究するか、自動車会社にでも入社したいと願ってました。
そうなるといいですね。
ただ頭の良い奴や天才肌は世間にでれば、いくらでも出会えるわけです。
日本人でありながらF1の設計者やら、アメリカズカップの船体設計者とか、その道の達人、仙人のような人々が。
大学数年の付け焼き刃で、ひしめく技術者を押しのけていけると勘違いしている若い大学生に、ちょっと苦笑してしまいました。
もっともレジ係のおっさんに笑われるのも気分を害するでしょうから、顔はへぇといった顔をしました。
若いっていいことだ。自分も似たようなものだったので、知識という武器をもった高揚感がよくわかります。
ずば抜けている技術者はちょっとネジが外れている
私が優秀だなあと思った人は、だいたい頭のちょっとネジがどっかに落っことしてきたような人ばかり。
将棋囲碁の有段者や熱心なクリスチャンでロザリオをコンピュータに掛けてたり、ギターや絵画の才能などなど異才を発揮するようなひとばかりでした。
もっとも他人から見れば子供じみていたり、傍若無人だったりと人格を疑うような人もいます。おしなべて”いいひと”では決してない。
私の師匠の副島隆彦も常人からみれば十分なキチガイです。
共通していることは、自分の思想と主義、信念がしっかりしていることです。
ある人は宗教的な信念、またある人は芸術分野からのインスピレーション、またあるひとは劣等感や社会への恨みみたいなもの。
スティーブ・ジョブスなんかは典型的でしょう。
視野が広い人しか技術屋では大成しない
オタクは消費者として企業にとってはありがたいのですが、いざ開発者(設計者)でオタクは嫌われるそうです。
トヨタ自動車にはクルマ好きがいないと豊田章男(とよたあきお)社長が嘆いたという逸話がありますが、実際に人材採用ではクルマのウンチクを語るほどのマニアは採用されないのだとか。またホンダはホンダ車の欠点(好まない面)を面接で発表させたとかそんな噂話があります。おしなべてクルマ好きやマニアはクルマ会社は採用をしないということは真実のようです。
独りよがりの技術者はマスプロメーカーにとって迷惑な存在だから。
まったく畑違いの人に商品開発やデザインをさせたほうが革新的なヒット商品につながることが多いようです。
斜眼帯(ブリンカー)をつけた競馬馬みたいな社員とくに技術屋なんて、今の世の中ではあんまり役立ちません。
平社員のままこき使われるだけです。
いわゆる便利屋、社内下請として重宝されて、使い捨てられます。
なぜなら、技術者(engieer)って元々から社会組織において地位が低い身分としてみなされてきたからです。
(産業革命でできた言葉。エンジンをいじる人という意味。同義語でoilish(油まみれ)という侮辱言葉もある)
・・・こんなことをアルバイトしている学生君にしゃべっても仕方がないので、ブログに書き留めておきます。
(追記)
ここまで書いてしまったので、はっきり申し上げますが
『技術大国ニッポン』なんてフレーズは大嫌いです
ああここまで技術が進歩して幸せだなあ~なんて感じたことがいっぺんでもあったでしょうか?
夜間でもコンビニのATMでお金を引き出せたから幸せですか?テレビの画質がよくなって幸せを感じましたか?クソ喰らえです。
(誤解をされると困るので言い改めますけども、技術屋は大嫌いですが、職人さんは大好きです。宮大工とか刀鍛冶、時計職人なんてゾクゾクしますね)
工学部の学生君を眺めていて、感じたことですけども、若いくせに悟りきったような面をしていることです。副島先生が日本の若い男は去勢されてしまったと嘆くことがなんとなくわかります。
技術大国なんて私は望んでません。
目指すべきは『エロス大国ニッポン』ではないでしょうか。
技術には全くエロスを感じないのです。これを「不毛の文化」といいます。
この不毛さは浅はかな技術信仰と金儲け主義にあると考えます。
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Tuesday, July 7, 2015, 05:35 PM
7/7 曇 16時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル
あいかわらず午前中はお店番を錦糸町でやってます。
契約期間が来週までなので、あと少しで退屈な時間から解放されます。
手持ちぶさたで一ヶ月の売上帳を眺めていたら、平日は売れ行きの良い曜日と落ち込む曜日があることに気づきます。
週初めは売上はたいてい良くありません。
そして朝10時~21時のショッピングモールの営業時間中、午前中の売上は全体の売上の1割程度しかありません。
大部分は12時~17時の5時間が7割で、あとの2割弱が18時以降で、19時~21時の時間帯は1割にも満たない。つまり夜は閑散としてます。
ざっとそんな感じです。服や鞄、雑貨といった商売は時間帯のピークは3時頃なのです。
ショッピングモールの長時間営業は店子の利益率を下げるだけ
売上が上がらない時間とわかっていても店員の人件費がかかります。
また夜間は手当を付けなければならない。
店のオーナーにとっては頭の痛い問題です。
女性を活用したいと思っていても、お子さんが小さいお母さんにはお願いできないのです。
配送と陳列ぐらいは男でもできるでしょうけども、とくにアパレルは女性ではないと接客できません。
接客業は5時間が体力的に限度
体験してみると、せいぜい3時間、なんとかもって4時間か5時間が限度です。
体力も気力もなくなります。
一日朝から晩まで笑顔を崩さず、テキパキと動き回るまわるなんて、私には無理ですね(笑)
これが自店舗ならば開店も閉店も自由に決められるのでしょうが、イオンやヨーカドーといったショッピングセンターでは店舗毎の裁量は無理なのです。
ショッピングセンターでは店員も"消耗品"扱い
だいたい店舗の開店前には、釣り銭の用意だとか、入荷した商品も確認、ポスターや値引きセールの貼紙など用意するために1時間は取られます。掃除をするところもありますね。
お店を閉めたからさあ帰れるというわけにはいかず、レジの現金と売上記録を突き合わせて、それをバックヤードにある入金室で入金したり、閉店後に模様替えや商品入れ替えをすることもよくあります。
となると閉店しても1時間2時間が費やされることになります。終電間近で帰って寝るだけという生活も珍しくないのだとか。
となると、24時間中12時間~14時間も拘束される場合もあります。店長やマネージャーといった責任者になるほどね。
思えば、私のIT業界で働いていた20代も会社にダラダラと居させ続けられましたネ。一日の2/3が会社に居たことになります。まったく無駄で有害な時間の使い方です。
若いゆえに時間は豊富に有り余るほどあるという感覚だったからでしょうが、今は一日一週間一ヶ月が早い早い(笑)一秒でも無駄な時間は過ごしたくありません。
表では笑顔でも、裏の休憩所の雰囲気は、どの顔もやさぐれてます(爆)
疲労で笑顔もない。
日本の小売業態は人材をひたすら浪費しているだけ
若者が主体の職場・業種なのに、その若者達が賢い消費者になることを拒んでいるのが、現状の小売業の酷い現実です。
長時間営業は高コストであり、それは価格に転嫁され、また従業員が消費する機会を失わせているわけです。
こりゃデートだおしゃれだとお金を使うことができんわw
ましてや結婚相手探しの時間もないじゃねえの・・・。
ちなみに、ショッピングセンターの午後の買い物客の主体は、子供連れのお母さん達や孫を連れた爺婆です。
不思議に13時あたりから乳母車をゴロゴロと押して、大勢押し寄せてくる。
ママ友と食事を摂って、散策しているついでに晩ご飯の買い物を済ませているのでしょう。
ショッピングセンターで働いている若者達はいったいどこで買い物をしているのだろう?
わずかな休み時間で同じショッピングセンターの店舗で買っているようです。
特に飲食店はテナントの店員は優良顧客ですし、割引もしているようです。
いちどショッピングセンターの檻に入ったら、なかなか出られなくなります。大型商業施設であればあるほど。
社会効率化のために夜間や早朝営業を規制すべきだ!
とくに女性の活用を社会目標に掲げるのであれば、勤務拘束時間は徹底的に抑圧しなければなりません。
工場などの第二次産業は8時から5時と相場が決まっています。
工場勤務って陽が高い時間に帰ることができるから、釣りをしたり、趣味に没頭したり、本を読んだりいろいろな過ごし方ができるのです。家族団らんで食卓を囲むこともできます。
これが昭和の普通の生活だったのに、いつのまにか一つ屋根の下でも別々の生活リズムになってしまいました。
ホワイトカラーも第三次産業の従業員であっても、おしなべてダラダラ働かせ続くこの社会がはたして良いものだろうかと思います。
時給を稼ぎたいからなるべく長時間働かせてくれという若者はそれはそれでいいです。
また出稼ぎ外国人も長時間勤務は歓迎でしょう。
ただし国力(=人材)にとってはあきらかにマイナスです
白痴化させるだけならまだしも、精神疾患(精神分裂症、統合失調症)の原因ともなります。実際に長時間勤務が鬱病の最大原因なのですから。
私が権力を握ったら、時給は2倍、勤務時間は半分にさせます。
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Monday, July 6, 2015, 04:11 PM
7/6 雨 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル
まもなくEU(実態はドイツ帝国)がつきつける財政緊縮策に対するギリシャ国民投票が行われます。
事前の調査では賛否が拮抗していますが、深夜には体勢は決するでしょう。
私はEUという組織の理念には理解していますが、Euro(オイロ)という統一通貨は欠陥制度だと思っています。
国力、産業構造の違う国同志が通貨を共通すること自体が間違いだったと後世で語り継がれることでしょう。
ドイツとギリシャの関係は、東京と地方の関係と同じです。
EU圏が一国のように振る舞うためには、稼いでいる地域から、収益のない地域へお金は環流してやらねばならないのです。
沖縄に国費がいろいろな理由で投入されていますが、もしそれらのお金をやめてしまえば、沖縄はすぐに立ちゆかなくなります。中国やロシアのお金が入ってきたら、すぐに親中・親露になってしまいます。
ですから沖縄という重要拠点を維持するための必要コストだという認識は持っておくべきでしょう。
ギリシャですが、民主主義(デモクラシー)という概念が出来上がった国です。デーモス(民衆)による政治という意味。
だからギリシャは本来は地中海諸国の中では先進国家であったのです。
オリンピックの発祥の地であり、11年前にはアテネオリンピック(2004年)が開催されました。
欧州が再び世界覇権の中心に戻ってきたのかと感慨がありました。
ちなみに、欧州=ロスチャイルド家VS米国=ロックフェラー一族という観点でです。
私もEuroはドル体勢へのカウンターとして2000年頃はたしかに期待していました。
ロックフェラーの覇権もこれまでだ
そういう期待感があったのも10年前までです。
そのあたりからEU自体の制度欠陥が垣間見えてきます。
ドイツ一国が旧マルクよりも安い通貨で輸出が伸び、ギリシャやスペインなどの産業基盤の弱い国は旧通貨よりも高いEuroで苦しむという構図となります。
またギリシャを含めた地中海諸国はEU加盟国ということで、EUの信用を担保に有利な条件の国債を発行することができたわけで、一説にはアテネオリンピック費用もほとんどか国債で賄われたのだとか。
ギリシャのEU加盟の道筋を描いたのはゴールドマンサックスです
そしてギリシャ政府は通貨高の恩恵を堪能したわけです。もちろんギリシャ国民すべてが恩恵に授かったのです。
財政緊縮でいまさら国民すべて貧乏になれと言われても、ハイソウデスカと納得できるわけがない。
もし財政緊縮策をギリシャ政府が受入れたとしても、若者を中心にドイツやフランスへ出稼ぎに行ってしまいます。
10年前でもレストランの下働きやボーイなどはギリシャ人が多かったな。
ドイツで口に合う物を食べたいと思ったらギリシャ料理が一番です。それにけっこうギリシャ料理店ってあります。
ほとんど外れません。
つまり、ギリシャという国は出稼ぎで保っている国ということ。
人と資金の移動を自由化すると格差ができるのは自明
水が高いところから低いところへ流れるように、EU内でヒトモノカネの移動制限を撤廃したらどうなったのか。
これはいうまでもないでしょう。
グローバルとはユダヤ教(拝金教)そのものの概念
人・物・金を国家に属さない(させない)のがグローバリズムという主義です。その大元はユダヤ思想です。
国家主権よりもカミとカネが一番という人々です。
ギリシャのEU加盟と国債発行で財政の粉飾を手引いたのがゴールドマンサックスです。
(未来の国民の所得と年金を担保にバンバンギリシャは国債を発行することで、EU加盟が認められました。)
ゴールドマンサックスという寄生虫にしゃぶり尽くされているのがギリシャの現状
そしてヨーロッパの投資銀行の餌食となっているのです。
明日は我が身、しゃぶられているギリシャ国民が<NO>を突きつけてユダヤ拝金教に一矢報いてやれ。
(追記)
夜中に書いた文章をそのまま載せました。
国民投票の結果、ECBの突きつける緊縮財政策にNOを突きつけました。
それでいいのです。ギリシャ国民が悪いわけではない、グローバリズムの犠牲者なのだと私は見ています。
スペイン、ポルトガル、イタリアもどんどん続けばいい。
ユダヤ教という砂上に建てられたEUという楼閣など崩れてしまえ!
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Sunday, July 5, 2015, 10:17 PM
7/5 雨 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル
本日の朝日新聞の日曜版GLOBEは大人の定義がテーマです。
大人を独立と定義するアメリカでは親元から離れて暮らすことが大人とみなされ、同居は白眼視される社会です。
高校卒業とともに自活していくのが普通のアメリカ人の感覚。
ところが最近ではパラサイトも珍しくなくなってきたというニュース。
次ページにはイスラエル人は徴兵による兵役満了(18歳で女子は2年男子は3年)をもっていっぱしの大人扱いとなるという記事。
職業訓練も兼ねているので、兵役後は軍歴に準じた仕事に就くようです。
イスラエルは13歳で元服式(バル・ミツバー)というお祝いがありますが、大人の通過儀礼として徴兵制は大多数の国民に指示されています。
かたや日本は成人式という田舎モンの同窓会よりも、とうがたってから似たようなリクルートスーツ(という軍服?制服?)を着ることが通過儀礼化しているという指摘があります。なんとまあ間抜けな大人への階段だ。
そして朝日新聞の記事の通り
「軍で鍛えられた子供らはみな、急に大人っぽくなる」
その通りです。特攻隊員の遺書などを読めば死に面すればこれほど精神的な発揚ができるのかと感じ入ります。
一方で
「若者には『早く大人になって国を守らなければ』という気持ちが強い。兵役はそんな思いを満たすと共に、軍が恐怖感をさらにあおり、敵の脅威を叩き込む場でもある。その結果、多くの大人が保守的になり、イスラエルの批判に耳を貸さなくなる」
とイスラエルのキネレット大学の人間関係を研究する教授もマイナス面を指摘しています。
ここであらためて説明しますが、イスラエルという国は建国以来からほぼ共産主義国家なのです。
キブツという集団(ソ連ではコルホーズと呼ばれた)が生活単位(地域単位)でした。
キブツという集落単位で産業や農業を分担していたわけです。
国家社会主義は高コストで自滅してしまう
ソ連崩壊後は、イスラエルもキブツ制度を廃止してしまいます。なぜなら維持コストに耐えられなかったから。
国内でも自由経済に移行していきます。
となると、旧キブツ(共同体)内でも、またキブツ同志でも格差ができるわけです。
このようにガザやイエメン国境といった戦闘地区へ回される者と、後援部隊に居る者などの不平等に対しても不満が高まります。
農業主体のキブツと都市部のキブツの出身者で配属先が決まってしまうのです。
このように徴兵制とは国家内の矛盾をすべて若者達に押しつけてしまう制度なのです。
貧乏国家のみが許される制度が「徴兵制」である
国家社会主義思想の具体例として国家存続を錦の御旗のもとに徴兵制があるのです。
日本がかつてそうでした。先進国では東西分断されていた西ドイツも実は徴兵制でした。台湾も韓国も徴兵制がありますね。
学生時代に、私の同年代の台湾人、韓国人、ドイツ人が集まると、あの銃は重かったとか、弾があたらねえとか軍事マニアが喜びそうな話ばかりしてましたね。テニスの授業でテニスラケットで軽機関銃の構え方とか、匍匐前進の仕方を教えてもらいました(笑)
大学生にもなって体育の時間なんて誰も真面目にやってないし、やる気もない。
今でも仲の良いドイツの友人は、10㎏もある長い狙撃銃を担いで何十㎞も行進させられたことが嫌で嫌で仕方がなかったと話します。
ただ私ぐらいの年齢(40代後半)では徴兵制も形骸化しつつあり、親元から離れて集団生活をする機会に過ぎなかったようです。
(いまはドイツでは徴兵制は廃止されています)
日本に徴兵制は無理無駄
まず最大の理由に、日本は社会主義国家ではないから。
そして国力が衰えたとはいえ、徴兵制を敷くほど貧乏国ではないから。
そして徴兵制を敷く国が直面していることは
徴兵制ほどコストのかかる制度はないということ。
18歳から女子は2年、男子は3年まるまる抱えて、手取り足取り職業訓練を施さねばならないからです。
かつての日本がそうであったように貧乏人ばかりなら、高等教育を授ける機会になったのですが、馬鹿でもチョンでも大学に進学する時代に、兵隊になって勉強できるからと兵役に就く人はいないのです。
日本は徴兵制となるという論拠はどこにもない
日本が徴兵制を施行するためには、その前提で日本が国家社会主義色、ファシズムが強くならなくてはなりませんけども、繰り返しますが、グローバル世界において国家社会主義は時代遅れなのです。
イスラエルでさえ放棄した主義です。
もっともお隣のバ韓国は中国のケツを舐めてしがみついていますけども(笑)
国家財政の問題を抱える先進国(というか国家財政は常に赤字であることが先進国の証でもある)が一番財政負担の重い徴兵制などできるわけがないのです。
もし日本が徴兵制を施行できるようになれば、それは台湾とやインドネシアとかと並ぶほど落ちぶれたということ。
そこまで貧乏国家になれば、あきらめてみんな兵隊になりましょう。
野党が安倍政権は徴兵制を目論んでいるかのように喧伝していますが、そのコストに耐えられるほど日本の財政はよくありませんから~、残念。
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Saturday, July 4, 2015, 12:06 PM
7/4 曇 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル
雨降りが続いています。
昨日は昼過ぎまで激しい雨で、千葉市の一部では冠水したり地下街は浸水したところがあったそうです。
そんな天候ですから、駅から離れたショッピングセンターに人が流れてくるわけがない。
実際歩いてみたら、膝下までずぶ濡れになりました。
案の定ほとんどが開店休業状態です。
商売は立地なのだなあと実感します。鉄道会社が駅を商業施設に建て替えしているのもうなずけます。
ところが駅周辺の小売業にとっては大きなマイナスです。
駅舎の商業ビル化で周辺部の経済圏が一気に縮小してしまう
良い例がスカイツリーの大きな商業施設があります。
スカイツリーの観光客が周囲の商店街にも人が流れてくることを期待して、足元の商店街は開業当時はお祭りムードでした。
もう4年近くが経ってどうなったでしょうか。
よけい寂れてます(笑)歓迎ムードはどこへやら。
とくに天候によって便利な立地と不便な場所とでは雲泥の差ができるのは誰もがわかることです。
政府発表の自画自賛な経済指標のこじつけで、天候不順が消費の伸びない理由だと繰り返し説明されてきました。
こんなのは中国共産党なみな理由にもならない理由であることには皆さんも呆れて怒っているでしょう。
景気が悪いのは緊縮財政と消費税であることを責任転嫁する財務省
まさか本当に天気が悪いから景気がよくないと思う人がいるとは思えませんが、お店番の合間にショッピングモールでの売上記録を眺めていると、ミクロ(日報)では天気が悪い日は売上は低いのですが、マクロ(週報や月報)ではほぼ一定に収まるのです。
天気が悪い日でも、午後から晴れれば人通りが回復して、売上も閉店時には平均的な売上になりますし、天気が終日悪くても翌日や週末で売上は上回る回復をするのです。ですから週単位で見ればさほど雨の日があっても影響は少ないと言えます。
正確なことは長期的な傾向です。
経営指標で前年同期や前年同月の比較がありますが、経営者や株主が重視する理由がよくわかります。
長期傾向が右肩下がりは気が気じゃないでしょう。(外回りの営業さんは「左肩あがり」と言ってました、初めて聞いた言葉w)
この売上の減少傾向の対策として、多くの小売店や飲食業が取り入れているのが、深夜営業や24時間営業といった長時間の営業です。
かくして早朝から深夜まで煌々と灯りが点いている街ができあがりましたとさ。
めでたくないめでたくない。
たいていは管理者やアルバイトにしわ寄せがきています。10時間12時間勤務が平然とされているのがサービス業の実態。
長時間勤務は人間の思考能力を奪い取る
限られた空間と情報源のみで一日の大半を過ごしていると、どんどん考えることが奪われていくことが実感されます。
関心が目の前のことしか向かなくなっていくのです。
テレビでやっていましたが、日本は労働時間では世界第三位です。一位がアメリカ、二位が韓国なんだとか。
ところが労働時間で割った生産性では先進国最下位です。
ヨーロッパでは家庭で過ごす時間は最低11時間なければならないと法律で決められています。
あくまでも人は家族と地域に属していなければならないという考えが根強くあるからです。
ドイツの公務員はお昼の3時には帰っちゃいますからね。6時間ぐらいしか働きません。
日本に旅行できたヨーロッパの人が驚くことが、夜の7時とか8時に人が通りにたくさんいることです。
夜に人混みがあるのは、祭りがあるときぐらいなので「日本は毎日が祭なのか」と勘違いしてます。
9時とか夜になっても会社に居座っていることにも、信じられないと驚いてました。
アメリカ人は遅くまでオフィスにいるのは経営者や管理職なので、同情などは一切しません。
でも日本ではぺーぺーでさえも定時に帰らないのかと不思議がっていました。
この現状を改善するために厚生労働省は長時間拘束の監視を強めているのだとか。
ここ浅草では仲見世(なかみせ)や道具屋街は18時にはすべて閉店してしまいます。まだまだ明るいこの季節にシャッターをガラガラ閉めてしまう光景はちょっとした驚きでしたが、これが一番だと私も思います。
昔は蕎麦屋なんて11時あたりに開店して3時には閉めるのが普通だったのに、なんなんでしょうね。
いまでは大型ショッピングセンターは24時間や9時や10時といった夜間営業があたりまえになっていますが、これほど非効率な社会はないのだなと、実感しています。
本はおろか、新聞やテレビさえも見ることが出来ないのですから、これほど恐ろしい洗脳隷属化社会はないと寒気をもよおします。
今の中高年、老齢世代と比べて、若者20代30代前半で一日の大半を他人に奪われていると、知識を仕入れることができません。
知識や経験量では大きなハンディを背負っているのです。
今はスマホがあるから十分だと言う人がいるかもしれませんが、所詮は受け身の情報に過ぎず、思考の形成には役立ちはしないのです。
しょせんは借り物の知識です。
長時間の労働時間を強要する社会を私は心底憎みます。
ブラック企業を叩けって?
とんでもない日本自体が『ブラック社会』そのものじゃありませんか
私は他人に時間を与えるのは6時間が限度です。
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Thursday, July 2, 2015, 10:21 PM
7/2 雨 10時 浅草での空間線量は20ベクレル/立法メートル
昨日は錦糸町から回り道をして浅草橋に寄って帰りました。
浅草橋は手芸用品やバッグの留め具などの小物、アクセサリー、皮革の卸問屋がたくさんあります。
小売もしてくれるので、自作派の私にとってはありがたく、心強い場所です。店員さんに聞けばいろいろアドバイスしてくれます。
浅草橋の南には馬喰横山という場所で、こちらは紳士服・婦人服の問屋街です。
浅草橋の北は蔵前といって玩具問屋があります。
そこからずーっと北側にいくと、浅草道具屋街(合羽橋道具屋街)という通りにつながります。
ここは厨房用品、食器のお店です。
私にとって浅草橋から道具屋筋までの一帯は、とても重宝する場所です。
ところがこれら問屋街にもシャッターが閉まったままとか、閉店の貼紙が目立つようになりました。
単価の安い金具や素材が売れてないのです。
セール、大安売りと垂れ幕が下がっていて、夏物の服は今は投げ売りになりつつあります。
へたしたら70%OFFという看板さえ見かけます。
洋服は値引きしても売れるでしょうが、金具や素材、厨房用品といった商材の基となるものは値引きして売れる物ではありません。寸胴鍋が安いからもうひとつ買っておくか、なんていうわけにいきませんから。
問屋街は消費のバロメーター(気圧計)
需要がものすごく落ち込んでいるのが肌で感じます。
浅草のショッピングモールでも閉店が相次いでいます。テナントがいなくなってガランとした空間が1階2階にも目立つようになりました。
ここに越してきて初めて見る光景です。
新規開店がなく、撤退縮小が末端で起こっているわけですから、そこへ卸す問屋街だって青色吐息です。
消費税増税が経済の息の根を止めつつあります
小さな商店、長年の問屋、下町にたくさんある軽工業が潰れてしまったら、日本の強みである製造業は壊滅です。
アイフォーンや自動車だけが製造産業ではない。
多種多様な雑貨が日本の製造業を象徴していたのに、お先真っ暗です。問屋街を歩けば、7月なのに肌寒くてしかたがありません。
家内制手工業のような小規模製造業が集まる台東区や墨田区、足立区、江戸川区、葛飾区などの城東・城北地域は喘いでいます。おばちゃんたちと話すと愚痴ばかり。
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Wednesday, July 1, 2015, 10:52 PM
7/1 雨 16時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル
半日だけ錦糸町のショッピングセンター・オリナスに突っ立ってます。
今日のような雨ですと、駅前ではない立地の商業施設は人は流れてきません。
目の前の錦糸町公園に訪れる人を狙った施設ですから、平日の雨模様となれば客足は遠のくことは予想できること。案の定開店しても人通りはまばらです。
昼頃になるとやっと幼児を連れた母親が行き交い出しましたけど。
墨田区錦糸町という場所は、もともとは場末の繁華街だったところで、若者や家族連れが集う場所ではありませんでした。
ところがスカイツリーに一番近いJRの駅ということで、しょぼい駅ビルしかなかったところに、商業施設が建ち並んだのです。
小規模の衣料品や雑貨の卸が裏通りにあったり、相撲部屋があったりして散策すると面白い場所です。
そして国籍もバラバラな人たちが行き交う場所です。
女性向け衣料品の専門店が建ち並ぶところなので、まばらに女子高生、OL、赤ん坊を抱えた母親、妊婦さん、おばさんらが目の前を通り過ぎていきます。
従姉妹のお店の店番なので、気楽に眺めています。
でもあることに気づきます。
女には颯爽と歩く人種と不格好に歩く人種がいる
年齢にはあまり関係ありません。年配でも立ち振る舞いがきれいな人がいる一方で、どたどたドスドスと歩き回る女子高生風情もいます。おもわずどこの相撲部屋の人かと訊ねたくなります。
足元を注視していると、あることに気づきました。
つま先が外に向いている女は、がさつです
着ている服装も普段着ですし、髪型もそれほど手入れしているようにはみえません。
はっきりいっちゃえば、若くても錦糸町のそこらのおばちゃんと同じ。
相撲部屋が多い地域なので、まさに相撲取りのような歩き方・・・ごっつぁんごっつぁんと言いながら歩いているようなもん。
ははん、ここはタイ人と韓国人の比率が多い地域なので、その国の方なんだろうなと合点しました。
総武線で若い女性が日本人であるかどうかは、すぐにわかると知り合いの医者の話を思い出しました。
「日本人は座っているときには必ず膝頭を揃えているだろ?でも、たとえば韓国から遊びに来ている女性をみていると、だらしなく股を開いて座っているからすぐにわかるんだ。」
これは幼稚園ぐらいのときから座るときにしつけられないと、内ももの内捻筋が鍛えられないから一朝一夕では閉じられないなのだとか。つまり自然ときれいな立ち振る舞いができるかどうかは小さいときからの訓練(習慣)で培われるのだとか。
タイや韓国では股を開いて座ることがあたりまえの日常生活なので、日本に来ても気を緩めるとすぐに
ぱかっと股を開いて座っている
のだそうです。たしかにそうですね、京成線の韓国人女性は日本人女性の座り方と違います。
ですから、国籍かお育ち具合は歩き方でだいたい推測ができてしまうのです。
きれいな立ち振る舞いの女性は、踵のない靴は履いていませんね。
妊婦さんや赤ちゃんを抱えているお母さんを除けば、踵のないズック靴(スニーカー)は感心できませんね。
なぜなら、歩き方も体型も「おばさんそのもの」だからです。
太った年寄と何も変わらない。
きれいでスタイルの良い女性は、足の親指の付け根(拇指球)を先に着地して歩いています。
一方、がさつな女は踵から着地して、ドスドスドスとドカタのオッサンのように歩き回ります。
もちろん眼が汚れるので、そっぽ向いてます(笑)
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Tuesday, June 30, 2015, 10:42 PM
6/30 晴 16時 浅草での空間線量は20ベクレル/立法メートル
まもなく夏休みに入ります。そこで勉強しなさいと叱責したら、子供から「勉強はなんのためにするのか」と反論されたら、どうすればいいかをラジオで意見の募集をしていました。
寄せられた意見や教育評論家と呼ばれる人物がごちゃごちゃと言い訳めいた話がされていただけです。
たいていは「将来のため」「なりたい仕事に就くため」「良い暮らしを得るため」・・・そんなところでしょうか。
哲学なき日本に反吐が出る
なんのために勉強するのかと言われれば、発展途上国の子供たちは自分と国を豊かにするためと即答するでしょう。
もちろん幕末から明治となり、猛烈に欧米列強に立ち向かうために必死で、貪欲に吸収していく意欲が日本にも満ちあふれていたでしょう。
そして1960年から70年あたりまでは日本と自分たちが豊かになるためと答えたはずです。
その頃は子供であった私の世代だって親がいうままに信じたはずです。
でも思春期あたりで、自我が生まれるとたいていは疑問に感じるのです。
はたして「なりたい仕事に本当に学校の勉強は必要か」「良い暮らしとは何か」という漠然とした懐疑が生まれるのはあたりまえ。
物質的には十分満たされていますし、私の世代ではジャパンアズナンバーワンと奢れた時で繁栄の頂点のように感じられていた頃です。
高校生の私は考えました、なんのために勉強するのかと。
とりあえず
・良い暮らしとは大きな家、良い車、奢侈な生活
・いい女(誰もがうらやむ才色兼備の美人)と結婚するため
・社会的なステータス(誰もが知っているブランド企業)
これらを得るために勉強というものをするのだろうと不完全ながら考えました。
今の若者言葉で言い換えれば、「スペックを高めるために勉強するか」ということ。
そして30年後の中年真っ盛りの現在で
高スペックなことは何も手にしてません
・良い暮らし・・・東京の下町で賃貸生活
・いい女・・・縁がありません、というかお目にかかったことがありません
・ステータス・・・入社後すぐに挫折
もし30年前にタイムマシンで戻れるなら、もっと好きなことやれよと自分に言いたいです。
どうせ同じ結末だから(笑)
何か一つでも得ているのなら、幸運な方でしょうね。
個性を重視した教育方針ですとか、子供の個性を尊重しますとか知った顔でいうテレビタレント風情の教育評論家がいます。
個性とは「神さまからの授かり物」という意味
宗教的な背景があってこその言葉で、キリスト教圏において個性(personality)は神さま(God)からの授かり物であるから人間が侵してはならないという意味合いです。
もっと露骨に天才(genius)、天性(talent)は欧米では「(神から才能を)与えられし者」(gifted)とも呼ばれます。
少なくとも家庭と地域社会において信仰に基づいた暗黙の教育方針があるわけです。
つまりは「勉強する行為=信仰の行為そのもの」であるから、何のために勉強するのかという疑問こそ信仰に反する愚問なのです。
勉強することは信仰の行為そのもの
神棚もなく墓参りもしない無信仰の親の元で育てば、たいがいバカに育ちます(笑)
黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」、ビートたけし(北野武)の「たけし君ハイ」やB&B島田洋七の「がばいばあちゃん」といったベストセラーを読みましたが、共通していることは信仰心の厚い母親か祖母が必ずいるということです。
あれをしてはなならい、これをしてはならない、これをしなければならないと口うるさくいう母親(祖母)が必ず登場するのですが、叱る理由はほぼ「信仰に反しているから」という諭しなのです。
それを子供はなんとなく感じて従うわけです。これが単に親の私見やエゴだったら反発するだけでしょう。
無神論者(atheist)無信仰者(nonbeliever)の意見はエゴイズムでしかない
子供はそういう欺瞞をするどく見抜きますから、たとえ親であっても聞く耳を持ちません。
アホかと反発するだけ。
親は子供に哲学をちゃんと示さねばならない存在であるべきなのです。
哲学とは宗教(信仰)に基づいた考え方やとらえ方です。つまり上位に宗教(信仰)があって哲学(勉強の体系)が生まれ、そこから思想が生まれ、その下に思考(考えの道筋)、さらに戦略と技術ができるわけです。
宗教(信仰:神さまGod)→哲学(Godはどう我々を形作ったのか)→思想(Godの意志とは何か)→思考(自分自身の答え)→戦略(どうすればいいのか)→技術(問題解決への手腕)
このような道筋になるのです。
ところが日本の大多数を占めるバカ親は思考も思想も哲学も持ち合わせていない。
いや日本全体が哲学から信仰心も消え去っているのです、戦後からずっと。
哲学無き日本は「経済力(お金)という神さま」しかいなかった
戦後教育でくるくるぱ~にさせられたから、勉強の目的を即答できないわけです。
信仰心抜きの教育は上滑りな建前論と見透かされています。
今の公教育に期待している中間層以上の世帯はいませんよ、東京や神奈川では。
都立中学や都立高校は荒れまくってますから、こぞって私立に通わせたいという親が多いのです。
私立ならすくなくとも問題児は退学という手段があるからに過ぎません。
理由はそれだけ。
低偏差値、荒れている学校の生徒というのはたいていは家庭も無信仰なのです。
勉強する/しないは信仰心から醸し出されるものであって、進学しないという選択だってとうぜんあるわけです。
ヨーロッパ、特にドイツでは子弟制度があり、テクニシャン(技巧者)として生きる道筋がちゃんとあるわけです。
そちらへ向う人という神の指示があったということで、劣等感も何もないわけです。
日本では「金儲け教」の脱落者としかみなされません。んで、低脳の親は悲しむという構図。
これがいまでもずっとつづいている。日本は戦後はずっと「無宗教国家」ですから。
だから「なんのために勉強するの?」という問いが子供らに出てしまうのです。そしてそれに答えられない親の存在、そのまた親の存在がどうしようもないからです。
創価学会の官僚が今は大部分を占めるのは当然の結果
霞ヶ関では一説によると三割近いキャリアは創価学会なんだとか。
私は創価学会に対しては別になにも感じません。日蓮宗系の宗教としか認識していません。
たしかに勉強できる奴が多かったかなという認識です。
受験勉強は大学生が教えてくれるから勉強会においでよと誘われましたことがあります。
彼らにとって日々の勉強や受験勉強は修業の日課にすぎないという認識があるのでしょう。
そこには何のために勉強するのという疑問の余地もありません。ついでに折伏。
だから教師や塾で創価学会信者が多いのは当然なんだなあと思います。
「なんで勉強するの?」の答えを持っているからです。
即答できない親は哲学もなく思想もない馬鹿親です。そんな親の元に生まれたことを憐れむべき時代になりつつあります。
背骨のない子供にしっかり立てということと同じです。
そもそも日本で勉強とはなにかを親も教師も知らないのですから
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信仰とは他力本願のことだが、ブッダは否定した(釈迦仏教と大乗仏教の違い)
思考停止に陥る危険な言葉・・・それは馬鹿が拝む「ナントカの『神様』」
カトリックとプロテスタント、どちらが原理主義(またはカルト)に陥りやすいでしょうか?
Liberty(リバティ)はプロテスタント・カルバン派の標語でしたが・・・
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理系とか理工学部とか理学と工学をいっしょくたにする愚かさ
数学は神を知るための手段であるという西欧の常識
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Monday, June 29, 2015, 12:36 PM
6/29 晴 11時 浅草での空間線量は24ベクレル/立法メートル
7月中旬まで不定期で浅草からすぐの錦糸町の商業施設オリナスにおります(笑)
東京建物の施設で、上階にはシネマコンプレックス、下階は専門店街となっています。
そこで半日つったってます。
アルバイトの学生さんが期末試験なので、従姉妹の会社のピンチヒッターなのです。
まだ三日しか行ってませんけど、お店番に過ぎないとはいえ、初体験で毎日どぎまぎしてます。
自店舗ならば開店も閉店も自由が利くのですが、ショッピングモールは厳格に決められているそうです。
つまり10時開店までに必ず開けて、閉店が21時ならばきっかりそれまでお店を営業しておかねばならないということ。
ですから遅刻はできなければ、子供が発熱や怪我といった急用でも店を閉められないのです。そのようなことがあればペナルティーを課せられるそうです。
子供のいる女性にとっては厳しい職場。子供との会話が長時間勤務でできないという愚痴も聞きました。(通勤時間を合わせれば一四時間にもなる)
また喉が渇いても、小腹が減っても口にしてはなりません。これはお店をやっている人には当たり前のことか。
そして驚いたのは、常に立ってなければならないのだと。スツールが置いてあるので座って良いのかと思っていたら、これは商品棚に手を伸ばすときの踏み台なのだとか。
へぇぇぇ~と感心するばかり(オレに務まるか・・・)
お隣の店舗の中年アルバイト店員は座ってスマホをいじくっている姿が監視カメラでばっちり映されて、すぐにショッピングモール側から厳格注意の上退去させられたのだとか。一挙一動どっかからふさわしくない行為として監視されているそうです。
まだコンビニはひっきりなしに客がくるから、手を休める暇はないでしょうが、専門店はそれほどお客が列をなすことはありません。
つまり、ず~~~っと手持ちぶさた。おまけに駅から離れているので平日は客もまばらです。
商品の位置を直したり、服をたたみ直したり、つねに身体を動かしておかねばならない。(店員が暇そうな店はお客が入らないから)
あと、いつも恐る恐るなのが、レジ打ち(泣)
こいつがオレを悩ませます。
電卓の親分みたいなもんだろ~と思っていたのですが、打ち間違えるとさあたいへん。
たとえば税込み1,080円を1,008円と打ってしまい、[C(クリア)]ボタンがあるので、それを押して改めて打ち直しても、一旦1,008円が売上に計上されてしまいます。つまり打ち間違えるたびに累積して実売上と乖離していきます。
そして締めで現金がたらな~いと大騒ぎ(笑)
だからレジ打ちとあわせて、手書きで売上記録をしっかり書き留めておかないとミスがわからない。
なぜ打ち間違えるのかというと、商品区分という必ず押さねばならないボタンもあったりと、あれこれ押さねばならず、それを省くとすぐにE(エラー)が出てしまうのです。そしてそれも売上には記録される・・・。
おまけに値段が税込みと税抜きの2つがある・・・。
アホだろ、このレジスターメーカー!(具体的にはカシオ製)
レジスターを放り投げたい衝動に駆られます(爆)
店員間では「バカレジ」と呼ばれているそうです。
さらにレジの売り上げ記録は毎日ショッピングモール側に提出しなければならないことも知りました。打ち間違いがあると報告の日報も書くことが多くなるのです。
一秒でも早く帰りたいのにイライラします(いや、させてますw)
それぞれ独立した店舗のように思っていたのですが、売上も監視されており、あまり低いと別テナントに替えられてしまうのです。厳しい世界だねえ。
それからというもの、スーパーのレジのおばちゃんらを見る目が変わりました。
いくつものボタンを瞬時に押していることに敬服します。
それとたくさんの人が働いていることに驚きました。小売業とは人海戦術の世界なのです。
何事も体験ですねえ。
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Sunday, June 28, 2015, 11:28 AM
6/28 晴 10時 浅草での空間線量は20ベクレル/立法メートル
昨日の新聞を読むまで『集団安全保障』という言葉を知りませんでした。誰も興味ないし下手な直訳した日本語というイメージしかないでしょう。
よほど関心がなければ調べようなどという気持ちすら起きません。
『安全保障』という言葉は『軍事同盟』ということ
「安全を保障する」のは警備会社の宣伝文句ではありません。
ちゃんと戦前では「(軍事)同盟」と報道されていたのに、国民を騙すための印象工作として「安全保障」と置き換えられたのです。
英語ではアライアンス(alliance)であり、同盟国はアライ(ally)といいます。
軍事同盟を辞書で引くとミニタリー・アライアンス(military alliance)となりますが、いちいち軍事をつけなくてもアライと言えば、「義」や「戦友」「共同体(一心同体)」というものすごく強い結びつきを示す言葉なので、アライアンス自体が軍事(power、force)の意味を含んでいるのだとか。(副島隆彦先生の英語解説より)
スネ夫とジャイアンはallyだ
(Suneo and Giant are allies.)
このように言われれば、誰もスネ夫にちょっかいを出せない。なんかあればジャイアンが拳を振り回して飛んでくることは理解できます。
そして問答無用に殴られることを覚悟しておかねばならない。
同盟(alliance)という言葉はそれほど重い重い意味なのだとか。
まっ、それを戦後の官僚たちが、ヨレヨレ爺しかいない警備会社の宣伝文句のような安っぽい言葉に置き換えたから意味がわかりにくい。
「集団安全保障」を英語ではCollective security、直訳すると「みんなによる警備体制」となってずいぶん受け身的な意味を持たせています。
とはいえ「集団」とは具体的に国家群、たとえば国連(the United Nations)、NATO(北大西洋条約機構:the North Atlantic Treaty Organization)やワルシャワ条約機構、上海条約機構などなどの締結国を示します。
「Ally(同盟)」よりも関係が浅いニュアンスの「Treaty:条約(国家間の約束・契約)」であっても、軍事力の融通という点では同じです。
真偽はわかりませんが、第一次大戦時の日英同盟下で日本軍が参戦に積極的でなかったことが、後の同盟破棄につながったという史観があります。アリバイ的に近場の上海のドイツ租借地を火事場泥棒のように奪っただけだという嫌疑がうまれたという説です。当時にヨーロッパまで派兵するだけの国力もなかったのでしょうが、もちヨーロッパ戦線に僅かな兵隊であっても送っていたのならば、歴史は大きく違っていたかもしれません。
掲載した記事は、NATOによるドイツのアフガニスタン派兵を同盟による集団的自衛権の行使のように報道して読者を混乱させたという指摘です。
・2001年アフガニスタンへのドイツの派兵は条約に基づいたもの
現在国会で審議しているのは
・自衛行動を同盟国で分担し合う是非をとうもの
全然意味合いが違うジャン!
自衛権とは主権国家が有する権利であることは国連においても常識です。
さらに集団的(=軍事同盟国)での自衛行動も主権国家においてはごく常識的に認められています。
新聞による思想操作の一部を見た感がします。
なんとしてでも日米軍事同盟に亀裂を生じさせた~い
もちろん中国(中国共産党、人民解放軍)が願っていること。それを朝日新聞がみごとに実行しているということ。
プロパガンダはこのように行われるという見本にもなりそうです。
あっ、私は日米安全保障条約は破棄となってもいいと思ってます。それが真の独立国家の姿ですから。
でもその時は核保有、大幅軍備増強、兵器開発への国力投入と誰もが期待しない方向へ向うことになるでしょう。
日本が軍事国家となってほしくないと、思っていても結果は正反対になってしまうということ。
(このような意に反した結果を小室直樹は「合成の誤謬(ごびゅう)」と名付けました)
関連ログ:集団的自衛権とは軍事同盟下では当たり前の行動なのに
数量化という概念が理解できていない人物の戯言は日本に悲劇的な結末を招く
3分で読む小室直樹「新戦争論」(学問道場版)
新聞を揶揄する川柳を紹介しておきます。
アカが書き、ヤクザが売って、馬鹿が読む
馬鹿は無害ならいいのですが、やる気だけある馬鹿ほど手に負えないものはないです。
だから国家問題は一小市民にとっては無関心であることが一番です。
なぜなら政治的関心が強い人は利用される(そして捨てられる)だけの存在だからです。
はい、私は新聞記事の99%はどうでもいいことです。

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Saturday, June 27, 2015, 02:46 PM
6/27 曇 10時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル
本日もどうでもいい話
中朝、米国政府=国際巨大資本、日本政府、国内大企業それぞれ利益の代弁であるのが新聞やテレビといったメディアであることはあらためて言うまでもありません。独立を謳うNHKであってもプロパガンダの一角に連なります。
そんなことは誰もがわかっていること、なのに・・・
テレビ制作の経験を買われ、NHKの経営委員会に抜擢されたりと自民党に重用されている百田尚樹(ひゃくたなおき)の放言がかっこうの非難の的になっています。
(政府方針に反対を唱える)共産系沖縄地方紙を潰してしまえなんて発言は本音でしょうけど、公で言うことではないでしょう。
安保法改正反対で使われる「戦争になる」という陳腐なフレーズしか繰り出せない野党民主党はかつての社会党と似たような存在になりつつあります。
けっきょく民間人でありながら舐めきった発言をする百田氏は、慢心がすぎると誰もが思うでしょう。
ましてやマスコミ出身者でありながら、マスコミすべてを敵に回してどうするんだ(笑)
米中ではプロパガンダ(印象操作工作)という戦争の真っ最中
いきなり背後から撃たれたと自民党議員は思っているのではないでしょうか。
リーサルウェポン(切り札)かと思い陣営に加えてみたら、誤爆・暴発を繰り返すどっかの国の武器みたい(笑)
いかりや長介ではないですが「ダメだこりゃ~」
沖縄が独立して自主政府樹立を宣言したければしたらいいじゃないか
アラブや動乱がつづく東欧のような代理戦争による地獄絵図になるのはあきらかでしょう。
中国を新たに宗主国とするのも、それはそれで琉球王朝の歴史上やむを得ません。
このように百田氏が切り返したら、少しは左翼系(中国寄り)メディアは黙り込んだだろうに、中共に利する発言してどうするんだ(笑)
非武装中立を謳ったところで、結局は周辺諸国から常に軍事的な脅威を意識して、さまざまな問題(領土・領海)を解決していかなければなりません。
非武装中立とは他人の褌をあてにする楽観主義の極み
一旦周辺のパワー(軍事)バランスが崩れると、真っ先に体制崩壊するのは地政学的には当然のことです。
結局は沖縄の人間も闘わなければならないということ。
だからって私は「琉球独立論」を否定しているわけではありません。
むしろ闘って戦って、戦い抜いて沖縄の人々が独立を目指す気位を持ち続けて欲しいと願っています。
日本の独立は沖縄からはじまって欲しい
私はリバータリアンですから、軍隊ぜんぶ追い出して、米中露どこにも恭順せずに、我々で美しき沖縄を死守すると蜂起して欲しいです。
それぐらいの激しさがあれば、全日本人が真の独立とは何かと目が覚めていくでしょう。
沖縄はちょうどキューバのような位置づけになるでしょう。
私が生きている間に、カストロやゲバラのような人物が現れて、琉球独立宣言を出す日が来たら、感動するだろうな。
もちろん日本人も琉球人もたくさんの血を流すことになりますけども、それはやむを得ません。
イデオロギーの闘いはどちらかが殲滅されるまでつづく、非情なものなのですから。
左巻の「米軍出ていけ」論はもっともっと激しく運動をやったらよろしい。
そして武力抗争へと発展して、生きるか死ぬかで白黒つけたらよろしい。
一番血なまぐさい解決ですが、主張を貫くということは、そういうことです。ちなみに
イデオロギーの闘いはNHK大河「花燃ゆ」から学びました(爆)
怒れる沖縄県民よ、さあカラニシコフ(AK-47)を手に取ろう!ただ中国製コピーだろうけどさ。そんな時がきたら私たちも無関係ではなくなりますけど、それも仕方がないです。

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Friday, June 26, 2015, 05:25 PM
6/26 曇 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル
たまにはどうでもいいことを書きます。
湿度が高く、汗をかく時期になりました。
ちょっと身体を動かしただけでシャツが汗ばみます。
衣類は洗ってしまうのが一番気持ちがよい。
私はべつに洗濯可能なものではないスーツやジャケットでも平気で水洗いしてしまいます。
過去に以下のような経験をしたからです。
ドライクリーニングしておいた夏服を久しぶりにタンスから出して着てみたら、なんか臭い。どれも体臭が染みついて気持ち悪いので、やけっぱちで風呂の残り湯に突っ込んでみました。
残り湯が紅茶色になりました。
衣類用中性洗剤で丁寧に洗ってから、脱水機にかけないで、タオルに挟んで水気をとって吊しておきました。あら不思議、テカテカしていたスーツがふっくらしました。
調べてみると、ドライクリーニングは油汚れだけしか落ちないため、水溶性の汚れ(汗や垢)はそのままなのだとか。
それいらいウールだろうが麻だろうが、手洗いしています。
そっちのほうが襟首などの汗染みがきれいに落ちるからです。さらに着心地が良くなります。
たしかVAN創業者の石津謙介氏も、アルマーニは水洗いしたほうが風合いが出て、ずっと着心地が良くなると、自分のドレススーツはドライクリーニングをせずに、高級ブランドでも平気で風呂場で水洗いしていたそうです。
型くずれや皺が気になるのであれば、ビシャビシャのままトルソ(マネキンの上半身)やタオルを巻いたハンガーに掛けておけばよいのです。この時期ですと、一日で乾いてしまいます。
掛け布団や毛布も平気で洗ってしまいます。ダウンジャケットも羽毛布団も水洗いします。
水洗いにまさる気持ちよさはありません
ところがテレビコマーシャルの影響なのか、汗まみれの運動靴やトレーニングウェアでさえも親の敵のようにファブリーズをかける人がいるのです。
洗えばいいのに、面倒だからとあちこちにシュッシュッシュッシュ、はいこれで明日もOKとのこと。
・・・でもねぇ~、遠くにいても臭いんだよ。それも微香を伴った嫌な臭いです。
この臭いは身に覚えがあるなあと思っていました。
先月はビジネスホテルに連泊していたのですが、ビジネスホテルの部屋の臭いってファブリーズの臭いなんですね。どうも掃除係が枕や掛け布団にシュッシュシュッシュしていくようです。
人工的な臭いが充満しているので、部屋にはいるとまずは窓を全開にして臭気を出します。
そして我慢して寝る(笑)
テレビコマーシャルの悪害でしょう。洗える物は洗った方が良いし、ソファーやカーペットなどは熱いお湯で叩き拭いた方がよほど気持ちがよいはずです。
でも誰もやらないし、シュッシュッシュで済むならそれで良いと思っている。
悪臭も慣れれば感じなくなるのでしょう。
ファブリーズって単なる薄い重曹水だそうです。弱アルカリなので酸性の臭いを中和しているだけで、アルカリ性の臭いは消せません。
除菌だ消臭だと消費者を惑わしていますが、要するに
肌に触れるものが、ずっと汚れっぱなしってこと
あ~気持ち悪い。そしてファブリーズ臭い奴は大嫌いw
いっぽう私は衣類寝具のみならず、電化製品、パソコン、テレビも水洗いしてしまいます。
コーヒーをこぼしたキーボードをバケツに突っ込んで洗うわ、ブラウン管テレビは裏蓋空けて洗車たわしで擦ってやりました。パソコンもなんどか基盤を台所で洗っています。これだけで直っちゃうのです。
過去ログ:そもそも根拠のない数字だからこうなるのです
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Thursday, June 25, 2015, 12:02 PM
6/25 曇 10時 浅草での空間線量は10ベクレル/立法メートル
ギリシャ債務問題よりももっと根本の重大な問題がEUを揺るがしています。
北アフリカ地域から地中海をわたって難民が押し寄せてイタリアが悲鳴をあげています。
日本の半分ほどの人口に年間17万人、今年前半だけでも10万人を越えているので今年は20万人を越える勢いです。
昨年とあわせて40万人近くがイタリアやギリシャに住み着くだろうということ。

人口比では0.6%程度ですが、言葉も宗教も慣習もすべて違うのですから仕事ができるはずもなく、税金で養わなくてはなりません。衣食住を提供するのに、100人から徴収した税金を回すとしたとして、40万人のために4000万人!が赤の他人のために稼ぐハメになります。4000万人という労働者数は日本のほぼ健常な成人(労働人口)に該当します。
難民の受け入れをEUの規則として制定しているのですから、イタリアやギリシャは大いに弱っています。
なんで難民の受入れがEU加盟の条件だったのでしょうか。
それは、EU(ヨーロッパ諸国連合)とはドイツがヨーロッパの覇権を握ったことで成り立った実質「ドイツ第四帝国」だからです。(第三帝国をナチス国家とした場合)
大戦後ECを経て、ユーラシア大陸に散らばるロスチャイルド系の貴族がドイツに恭順して成り立ったのがEUという連合国家です。
それも最悪なことに、「人権平等主義」という偽善を建前にして・・・
皮肉なことに、同じ偽善国家アメリカのアラブへの介入で、間接的に首を締め上げられているという大きな構図となっています。
あ~あ、どんどん問題が大きくなって、一国家ではどうしようもならなくなっちまったよ。
EUからみれば日本の在日朝鮮人問題なんて問題の内に入らないです。どこでもある民族対立にすぎない。
それどころか、大阪(生野や鶴橋)や東京(新大久保、西葛西)、群馬(太田市のブラジル人街)などなどは一二〇点の点数をつけてもいいのではないでしょうか。
日本という国家は異言語・異教徒らに本当は寛容な国家なのです
私はEU発足後にドイツに滞在した経験があります。
まだ当時はユーラシアが(ロシアを除いて)統一されたという機運が満ちていたし、ドイツ人やフランス人は国境がなくアルプスを越えてバカンスを楽しんでいるように見えました。隣町へいくような感覚で1000kmぐらいのドライブに行ってしまうのです。
ところがアメリカでもそうですが、街を外れると、あからさまでない些細な差別はいくらでも体験できます。日本人もそうですが、小馬鹿にされていたのはギリシャ人やポルトガル人、東欧諸国の人たちら出稼ぎの人たちでした。ウエイターやウェイトレスはほとんどそういう人です。身体で稼ぐ仕事の出身国は相場が決まっているのです。
フランクフルトなどではスーツを着たアフリカ系の人ももちろんいますし、大都市ではいろいろな人種がごちゃごちゃいますから気になりませんけども。
我がドイツ国家こそコスモポリタンだという自信があちこちにみなぎっていました
それが
EU発足20年が過ぎて内部崩壊は目前
ドイツという工業力と資本力が強い国と、強力な産業がない国家とでは一方通行の関係になっていきます。ドイツの発言力が高まっただけでした。
ナチズムを全否定したら自縄自縛(じじょうじばく)で自爆しつつあるのが独仏両国の姿です。
だからプロテスタントの信者はドイツで減っているのだそうです。プロテスタント福音派の洗礼者数の減少が著しいのだとか。
アメリカもプロテスタントは減少傾向で人口比ではすでに半数を切っています。
カトリックに対するプロテスタントと一口で言っても、オランダから英国を経由して新大陸アメリカへ渡っていったのは清教徒(ピューリタン)というユダヤ教と合わさった宗派(ユニテリアニズム=一神教=ユダヤ教=フリーメイソン)を信仰する人たちです。
これに対する勢力はご存じバチカン(カトリック・イエズス会)でした。
アメリカがなんでイスラム・スンニー派を支援してきたのかというと、イスラエルのロビーによるものでもあるし、シオニズムを支持するユダヤ人資本家がシーア派(具体的にいえばイラン)への制裁を推していたわけです。
私の推測ですが、つまり敵(カトリック・バチカン)の敵(イスラム・スンニー派)は味方という流れもあったはずです。
ところが20世紀はカトリックを大きく凌駕(りょうが)したかのように見えたプロテスタント派は近年大きく勢力をそがれています。
もっともアメリカはとうの昔にカトリックに支配されている国でもあるのですけれども
過去ログ:カトリックとプロテスタント、どちらが原理主義(またはカルト)に陥りやすいでしょうか?
Liberty(リバティ)はプロテスタント・カルバン派の標語でしたが・・・
>CSIS(戦略国際問題研究所)の設立母体はイエズス会であった
プロテスタントの掲げるリベラル(福祉主義)・自由平等主義の<偽善>がやっと嫌われてきたからです。
ヨーロッパのみならず世界では右翼(民族主義)勢力が伸びているのがその証左。またピケティが述べているようにフランスでは露骨なほどカトリック優遇措置へ傾いています。自由平等を謳っていながらの矛盾した政策を進める政府という構図です。
ギリシャがEU脱退となるとギリシャ人のみならず喝采を送る人たちが多いのではないかな。特にカトリックの人たちは。
1982年に小室直樹先生が国連という幻想を捨て去り、自前の軍隊を確立することが世界の秩序安定につながるという逆説に辿り着いたことはご自身でも驚いていたそうです(副島隆彦談)
弟子であるその副島隆彦先生も、元左翼主義者でありながら、世界の国家問題の根源は18世紀にルソーが唱えた<過激・人権思想>にあるという結論に辿り着いてしまったのです。
今の国会中継などを眺めていると、なんか日本は半周は遅れているなと感じずにはいられません。
政治家たちに緊迫感がないもの・・・とくに辻本清美なんて馬鹿代議士の質疑なんか聞いていると。
馬鹿を掲げる国民性なんだから、日本にはお似合いです。
どっちみち我々は島国土人(islander:アイランダー)なんだから周囲だけ注力しておけばよいです。
キリスト勢力に荷担して他国にお節介しに行く必要はないのです。
あっ、でも私は憲法改正には賛成です。
これが費用もかからず一番軍事衝突の可能性が低い領土防衛策だからです

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Wednesday, June 24, 2015, 02:28 PM
6/24 晴 10時 浅草での空間線量は9ベクレル/立法メートル
明治となり西洋から啓蒙思想(フランス革命で宣言された「人権」という新たな概念)として流入した利己主義(エゴイズム)に悩んだのが夏目漱石であり、晩年の森鴎外ら文豪たちです。
「人権(Human Rights)」は今でも世情不安にさせる諸悪の根源だ
関連ログ:まさに「黒い巨塔」・・・最高裁事務総局の黒い支配! 「ニッポンの裁判」瀬木比呂志著
私は憐れむことには飽きた (旧約聖書エレミヤ書15章6節)
一票の”格差”が半世紀以上も放置されつづけているわけ
「余剰の時代」を生きのびるにはリバータリアニズムを根付かせるしかない
三権分立が厳格なアメリカで米官僚が安倍晋三に議会演説を要請するわけがない
NHKによるリンチ報道とまんだらけ万引き犯の擁護をするNHKの欺瞞
あなただって立派なフリーメイソン思想なのです
安倍政権の外国人労働者受入拡大に断固反対する!米国務省の仕掛ける罠
リバータリアンはナショナリズム(民族主義)ではない!むしろ究極のリベラルである
大日本帝國憲法(明治憲法)はキリスト教概念をとりいれた憲法であった
「医学的根拠とは何か」(津田敏秀 著)・・・専門家たちの独断のことです
朝日新聞で漱石のそれからが連載されています。
これを読んでいると明治の知識人の戸惑い(アンニュイ)がよくわかります。漱石に同情しながら読んでいます。
高校生の頃読んだ感想とはぜんぜん違います。漠然と恋愛の話だと思っていました。
ああ苦悶していたのだなあ、漱石さんは・・・
「明治日本はユニテリアン教会がつくった」(成甲書房 2014年)を執筆してからというもの、ずっと明治の知識人に関心を抱いております。
明治維新によって「国家と国民」という西欧に倣った秩序ができあがり、それに戸惑うのです。
主人公の代助が抱く漫然とした疑問・・・利己主義がほんとに近代的なのだろうかと逡巡しているのです。
代助の父は維新で活躍した武士階層であり、儒教的な旧来の考えを押し付けますが、代助はそれをのらりくらりとかわして働きもしません。
命をかけて守るものは何だ!?
それまでは武士であれば主君やお家であり、農民にとっては田畑だったのですが、文明開化という名目で霧消しました。
資本主義経済が生活をすべて変えていったのが、100年前の漱石の時代です。
そして倫理観もそれまでと一変して殖産興業、富国強兵こそ国民の責務と喧伝されていたのです。
漱石は”それから”の始めに主人公代助に馬鹿馬鹿しいと言わせていますね。
(対して鴎外は無邪気に一等国だとはしゃいでいます)
国家や資本家に対して働く意味を代助は見いだすことができません。
また学問に対しても常に傍観的な立場をとり続けます。昨日のアウトサイダー(outsider)の立ち位置に居続けるのです。
漱石はほんとうに頭が良かったのだなあ~
明治日本はユニテリアン(フリーメイソン)らによって創られたことは、「明治日本はユニテリアン教会がつくった」で述べております。
ユニテリアニズムというキリスト教でありながらサイエンスを重視した思想を日本の知識層は近代思想として受け入れたのです。なんども言っていますが、物理・天文・数学といった理学は宗教思想から派生して発展していった経緯があります。
ですから”それから”の主人公・代助も本来は西洋では修道士のような人なのです。
また江戸時代では「食客(しょくきゃく)」や「客人(まれびと)」と呼ばれており、藩や豪商らが知識人を学者や指導者・相談相手としてそれぞれの屋敷に住まわせていたのです。
居候はべつに恥ずかしいことではなく、藩やお金持ちは知識人に見返りを求めることなく衣食住を提供していたのが江戸時代までの文化でした。
ところが食客としての身分を明治も終りになると、誰も認めない社会になってしまったということ。
サイエンス(science)という信仰に国民すべてが切り替わってしまったように漱石は感じていたのでしょう。
反動で明治から大正にかけて、新興宗教が乱立していきます。いまでも仏教系、神道系、キリスト教系あわせて600ほどの団体があるようです。
新興宗教が流行ったのは、社会変化(科学万能主義)についていけなかった人たちの受け入れの場だったのではないでしょうか。
はっきりいえば信者たちは、落ちこぼれであり、貧乏人であり、情緒不安定な人たちです。
こういう人たちを救済することが目的ですから、それはそれで意義があったのでしょう。
いまは仏教も神道もキリスト教自体も日本においてはそれほど勢力はありません。
なぜならソビエト連邦が成立し、共産主義が知識層に拡がり、戦後さらに加速したからです。
新興宗教よりも昭和初期の国家社会主義、そして戦後は共産主義が昭和の代表的な思想だったからです。
ユニテリアニズムはリベラリズム(平等主義)であり、さらに共産主義と親和性が高いのですから、当然でしょう。
現代によみがえる霊魂主義(スピリチュアリズム)という先祖返りの宗教
占いの類は昔から脈々とつづいております。
「神」という言葉自体は本来は「占い師」「まじない師」であると副島隆彦は指摘しています。
日本人の「神さま」とは「ご託宣をくれる人」という意味程度で多用されますね。(例:~の神さまと人を形容するときに使われています)
霊魂の存在を信じるのがスピリチュアリズムというのでしょうが、じつはこれはインディアンとか原住民といった非欧米諸国の土着宗教なのです。
日本でも小泉八雲や遠野物語の柳田国男が、地方の伝承をまとめていますが、妖怪伝説や霊魂のお話はそれぞれの土地に信仰として存在しております。
無宗教の時代である現代において、スピリチュアリズムが若者の間でひろく浸透しているということは、ふたたび土着宗教に信仰が戻っているということです。
とどのつまり四柱推命や風水も土着信仰の一つです
スピリチュアリズム(霊魂世界を信じる新興宗教)は自己啓発(いわゆる願えば叶うという信仰)や健康法(水に感謝するといいといった類)といった具合に形を変えてそこらに広がっています。
そこに精神的な安定を求めるのは結構ですが、そもそもそれらを信じる土壌には人々の劣等感・貧困・情緒不安・愁訴などがあるからです。土人宗教にのめり込む人たちはそういう問題を抱えた人達です。
知識層には属さない人たちが無自覚に信者となっているのでしょう。
六城ラヂウムはスピリチュアリズム(霊魂世界を信じる新興宗教)には関心がありません。
また新興宗教に関わることもないと断言しておきます。
ただ無神論者ではありません。いちおう神社では手を合わせますし、お墓参りもします。
明治の知識人も同じ心情だったのでしょう。
過去ログ:夏目漱石の宗教観とインターネット空間が無法地帯であること
「それから」に学ぶ「喰うために働くということは悪徳である」ということ

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Tuesday, June 23, 2015, 12:24 PM
6/23 曇 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル
昨日の朝日新聞に山下清の解説がありました。そして頁をめくると漫画家でタレントの蛭子能収(えびすよしかず)が載っていました。
どちらも独りで群れないという信条を貫いているところが魅力となっています。
美術ではアウトサイダー(outsider)と呼ばれているのだそうです。
アウトサイダーを辞書で引くと、部外者、門外漢、競馬では勝ち目のない馬ということ。
近代において芸術はアウトサイダーにより発展した
これが美術を鑑賞する上で重要なことです。
先日、ピーター・ドラッガーの水墨画コレクションを鑑賞してきました。ドラッガーは室町時代に日本のルネサンス(芸術復興)の動きを見いだし、室町時代と江戸時代の文人画を重点的に蒐集しました。
文人画とは天皇や将軍のお抱え絵師ではなく、市井の町人や武士がフリーランスの絵描きとなって描いたものを指します。
いわば正統から離れたアウトサイダー達の描いたものが文人画というカテゴリーになります。
500年前の室町美術がそれまでの仏教美術から頸木を解かれて禅宗、そして独自のトロポジー(幾何学)的な要素が加わっていったとドラッガーは解釈していきます。
そして江戸時代の文人画は幕府への反逆精神の発散として豪商らに愛されたのです。ドラッガーも同様に愛でました。
ヨーロッパでも芸術の流れは同じです。
抽象画はわかりにくいと敬遠される方も多いでしょう。
シュールレアリズムでよく知られているのは、溶けた時計といったモチーフで知られるダリでしょうか。
またピカソはキュビズムという三角と四角のみで表現する手法を多用しました。
異端であることは一目瞭然です。
その異端の美術を日本で絶賛していたのが、森鴎外でした。
西洋近代美術は反逆精神の発散によりものだと見抜いていました。
コンピュータ・グラフィックス(CG)の祖先はピカソである
皮肉なことに、キュビズムは現代のコンピュータ・グラフィックスでは重要な手法です。ポリゴンという多角形で複雑な立体物を表わして座標データを動かすことで、歩いたり飛んだりする動きをだしているのです。
初期のコンピュータ・ゲームはモアイ像みたいな粗い表現しかできませんでしたが、いまでは描画能力が向上してとても滑らかになりました。
セガサターンとかプレイステーションで遊んだことはありますが、格闘ゲームやカーレースゲームのおもしろさよりも、キュビズム(ポリゴン)に愉悦を感じていました。ピカソが生きていたら自分の業績だと感激したでしょう。
日本のアウトサイダー美術と西洋のアウトサイダー美術は融合した
浮世絵の影響がモネなど印象派とよばれる画家たちに影響を与えたと言われますが、なんのなんの抽象画にも影響が色濃いと私は捉えています。
たとえば、もし私が日本の現代美術の代表を挙げろと言われれば、まよわず三越の包装紙を挙げます。
三越の包装紙のデザインは、目立ちすぎず派手すぎず、心を平穏のままにする絶妙さに感心していました。元図は現代美術家の猪熊弦一郎で三越のロゴはなんとやなせたかしによるものです。(残念なことに現在は意匠が変わってしまったらしいです)
西洋の代表作を挙げろと言われれば、私はピエト・モンドリアンを挙げます。
どちらも絵画というよりもデザインの妙です。空間を分けるという概念は日本の水墨画の表現方法そのものです。モンドリアンはそれをさらに先鋭化したものです。
緻密であり大胆、これは1900年(明治~大正)の頃に西洋絵画と日本の水墨画・浮世絵が融合した結果ではないかというのが近代美術の私の鑑賞点です。
山下清が出てきたので、もう一人の巨匠に触れると、ゴッホに影響を受けたと言われる版画の棟方志功です。やはりどちらもアウトサイダーです。
記事では椹木野衣(さわらぎ のい)という美術評論家・多摩美の教授が日本を含む非西欧圏の美術はアウトサイダーであると述べていますが、実際はアウトサイダーが美術界を牽引しているということを認めています。
この取材した記者の記述がわかりにくいんだよなあ(笑)
過去ログ: 室町時代が日本のルネッサンスであった(ドラッガー・コレクション)
カトリックとプロテスタント、どちらが原理主義(またはカルト)に陥りやすいでしょうか?
幕臣たちの明治維新 徳川幕府は新政府よりも劣っていたのか?
数学的才能は思想のみならず芸術や音楽の基礎である
神から離れることで自由になれる国と共にあることで自由になれる国
古代から「怨念」「穢れ」「祟り」に支配されているわが国
明治に入ったのは西洋技術とそして神学論だった
「明治」(人民を明るく治めるという意味)はメーソン思想から取られた?
なぜ副島隆彦はルネサンスに注目しているのか(宗教と政治という不滅のテーマ)

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Monday, June 22, 2015, 12:29 PM
6/22 曇 10時 浅草での空間線量は13ベクレル/立法メートル
誰もが小学校あたりに将来の夢なんてお題で作文させられた経験があると思います。
朝日新聞の連載記事を読んでいると、夢という現象にたいしての考えが時代で異なっていることがわかります。
神格性を帯びさせる目的で、夢の中で神仏からの加護があったとか、お告げがあったと言い伝えることがあったにせよ、
夢は中世までは娯楽であり、庶民の小咄のネタに過ぎなかった
ひとことで表せばそういうこと。
ここ浅草の門前では江戸時代のおとぎ話として、貸し枕屋があり、それを借りてうたた寝をすると夢では吉原の遊女をはべらかしたり、舟を浮かべてお大尽遊びにうつつを抜かすことができるというもの。
発想がドラえもんです。オチも夢で川に落ちてあっぷあっぷしてしまったというコミックそのものです。
このように江戸時代あたりまでは、空想を愉しむことが「夢をみる」という行為だったことがわかります。
江戸時代の小咄では「夢を見る者=ぼんくら(道楽者)」として嘲笑の対象であることが、その証左です。
為政者やリーダーが宗教的なお墨付きを得たかのように流布するため、夢枕に観音様がお立ちになられたとか、神仏祈祷でお告げがあったなどと利用されることがあっても、睡眠中の現象に過ぎないという現実的なとらえ方もあわせてしていたのです。
京の天皇や公家にに影で指示していたといわれる陰陽師(おんみょうじ)も、実態は神官であり、さらには数学者であったのです。天文観測や気象観測の専門家であったと言われています。だから江戸時代には陰陽師の夢占いの類は、権力に近づく手段だと見透かされていました。
私も占い師という人たちは大嫌い(笑)
明治以降に「夢」は願いや望み、志と同義になった
歌謡曲で「あなたの夢を叶えて~♪」「未来へ大きな夢をもって~♪」なんて陳腐な歌詞の曲がラジオから流れてくるたびに、へんな言葉遣いだなあと感じていました。
とにかく下手くそなジャリタレが歌う曲にはやたらと「夢」がでてきます。
なんでこんなに世の中「夢」が濫用されているのでしょうか。
1990年(平成2年)に公開された黒澤明の「夢」は黒澤が実際に見た夢を映像化したものということで、8話のオムニバスになっています。
原発が爆発して赤富士が噴火したという夢は、東北震災で一時話題になりました。
黒澤にとっても夢は過去から現在へのふり返りであって、そこには願望といった要素は見あたりません。
まさに夢というタイトル通り、過去から抱いていた恐れから、黒澤が見た夢です。
同じ日付には「神や仏を信じますか?」という読者アンケートが掲載されています。
1956人中「はい」が58%、「いいえ」が42%です。
だいたい6割しか神頼みをしないということは意外に少ないようです。
キリスト教圏の欧米では神の存在を信じるのは85%程度が普通のようです。
日本人の場合は、宗教宗派問わず、もっと大きな力(全能の存在)を信じる人が大半のようなので、42%が無神論者というわけではないようです。
無神論者なら初詣やお盆などは一切行いませんけども、そういう人たちは見る限りごく少数ですね。
20世紀になって理神論を「夢」と安易に置き換えた
理神論、つまり全能の神さまはいるという思想(無神論ではない)が20世紀になって日本だけで広がってしまったのです。
もしくは海外の影響でdream(ドリーム)を「未来を指す言葉」と勘違いして、理神論だけが換骨奪胎で広がってしまったのかもしれません。
「dream」に「夢」をあてたのは間違いだと思いますね
日本語の「夢」には空想とか「あり得ない事」という意味しかなかったのですから。
なぜか日本においては夢という言葉に理神論が加わって、「夢信仰」へと変貌してしまったのです。
たぶんキリスト教やイスラム教など一神教の国家においては
自分の夢に願望を入れたら非信仰者扱いされてしまう
キング牧師が黒人差別反対の演説で有名な「I hava a dearm 」と始めたことで、全米のキリスト教信者には衝撃を与えたことでしょう。
夢を見ることは勝手だろうけども、それがGODやJesusに代わって自分の理想を夢として<布教>したのですから。
これは牧師としては自殺行為であることをキング自身も自覚していたものと思われます。
聖書に書かれていない<自分の願望>を夢と称して、あたかも「夢」を信仰に加える行為と捉えられても仕方がないからです。
おそらく信心深い白人キリスト教徒達はキングの演説に違和感(もしくは強い反発)を抱いたのではないでしょうか。もしくは逆手にとられたと感じだでしょう。
夢は「あり得ない空想」であって、将来に導く言葉ではないのです。(黒澤明の夢では原発事故は残念ながら起こってしまいましたけども。)
無信仰の日本人においてはこれからも夢信仰はつづくでしょう。
新興宗教や自己啓発などでは、夢(願望)を叶えると喧伝していますが、無信仰の日本において咲いたあだ花のカルト宗教なのです。
夢を願望としてセミナーなどを開催している人や団体は、近づかない方がよいでしょうね。
私はリアリストですから「夢」に将来や理想などあるかと鼻白みます。
夢とは叶えるものであれば、それは希望・願望にすぎません。
夢想した願望はやっぱり夢でしかない(笑)
夢と称して願望をしゃべるのは中学生あたりまででしょう
過去ログ:良い夢は盗られるから口外してはなりませぬ

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Saturday, June 20, 2015, 01:02 PM
6/20 晴 10時 浅草での空間線量は18ベクレル/立法メートル
昨晩のNHK教育「宇宙白熱教室」を観ました。宇宙物理学とはすごいものだと感心しました。
NHKの紹介サイト:http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/cosmology/index.html
次元解析という紙と鉛筆どころか暗算でも十分な桁数だけをおおざっぱに概算するだけの手法で、我々の銀河系の質量まで導き出せるのです。
20世紀初頭に銀河の距離と速度を計測したところ、宇宙は膨張していることが発見されました。(1929年 E・ハッブル)
どうやって測ったのか?
銀河は遠ざかると暗く見える(光は距離の二乗に反比例)ことと遠ざかる銀河の光は赤っぽくなること(スペクトルがドップラー効果で赤法変位する)を一つ一つ調べたのです。
そうすると銀河の移動速度がわかったのです。
H(ハッブル定数)=100km/sec/Mpc
(実数は70だが計算しやすいように100にまるめています。Mpcは100万光年の距離)
つまり100万光年の先にある銀河は毎秒100kmで遠ざかっているということ。この速度で宇宙は膨張しているということ。
ハッブル定数の時間と長さの次元をまとめると 1/10^10年
「10の10乗年」ぶんの1の次元ということ。この「10の10乗年=100億年」とは宇宙の年齢と等しい時間です。
物体が動いているならばニュートンの運動方程式「F=M・a」が作用し、それでM(質量)が算出できるからです。Fは力、aは加速度です。
そこから導き出される運動エネルギー(仕事量)は質量に最終的な速度の二乗に1/2を掛けたものになります。
(1)1/2×M(質量)×V(速度)^2 ・・・運動エネルギー
距離Rだけ離れた質量mと大きな質量Mのふたつの物体にかかるニュートンの万有引力の位置エネルギーの式は
(2)-G(重力定数)×m×M/R・・・位置エネルギー
物体の持つエネルギーは運動エネルギー(1)+位置エネルギー(2)を持っています。
E=m・v^2/2-G・m・M/R
■銀河の質量はどうやってわかったのか
デンマークのヨハネス・ケプラー(1571-1630)が惑星の公転速度の二乗は太陽の距離に反比例することを発見しました。その結果から(40年後に)ニュートンが万有引力の法則を導き出しました。
100年後に重力定数という微小な値を測定し、月の公転速度から地球の重さ6×10^24kgという算出に成功しました。
となると太陽は2×10^30kgと芋蔓で太陽系の質量が計算されていきました。
銀河の渦巻きの速度を観測したら、質量は計算できた。
2×10^41kg
銀河はだいたい1000億個の恒星と見積もることができました。
ところが銀河の恒星の公転速度を一つ一つ調べると、中心から離れると遅くなるはずなのにほぼ一定でした・・・
これが暗黒物質(dark matter)の発見へとつながっていくのです。
壮大な数字ばかりですが、数学の世界では銀河系の重さも測れてしまうということです。
そして新たな発見もされたというお話です。
過去ログ:「引力」ではない!「押しつけられる力」なのである(暗黒物質の正体)
まだまだ未知の物質だらけ (既知の物質は全体の4%)
ダークマター(エーテル)説をあざ笑っていた科学者出てこい!
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Friday, June 19, 2015, 11:04 AM
6/19 霧雨 10時 浅草での空間線量は14ベクレル/立法メートル
千葉市美術館で行われているピーター・ドラッガーのコレクション展の紹介番組を観ました。
NHK日曜美術館 ピーター・ドラッカー 日本美術へのラブレター
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2015/0607/

そして14世紀イタリアのルネサンス運動と同じ時期に同じ芸術の展開点を室町時代の山水画、禅画に感じたのです。
ルネサンスは芸術復興運動と和訳されていますが、これだけでは意味がわかりませんね。
それまではカトリック教会による制約をうけた絵画しか認められていませんでした。宗教に背いた描写は許されず、背いた画家はもちろん依頼主でさえも処罰されてしまう厳しいものでした。
カトリックの弾圧に立ち向かったのがメディチ家です。反カトリックを表向きにはださずにフィレンツェの芸術家を支援してきました。パトロンという言葉の意味は「芸術擁護者」です。
銀行を営むメディチ家をパトロンとして、フィレンツェは芸術の町として花咲きます。そしてドイツ人のルターによる宗教改革、プロテスタント(抗議)運動とともに芸術復興運動は北へ北へと進んでいきます。
200年ぐらいかかってオランダに影響は到達します。レンブラントあたりの画家がルネッサンスの影響です。
夏目漱石は英国のターナーが大好きで、「坊ちゃん」でも松山の小島をターナー島と評して度々登場させています。
ターナーもカトリックの束縛から解き放たれたルネッサンスの影響を受けた画家です。
このように西洋芸術史にも詳しいドラッガーは、偶然日本の水墨画にも14世紀に大きな変革があったことを発見し、蒐集を始めたのです。
ドラッガーの経営哲学の根本「変革(inovation)」は画風の変化を敏感に感じる感性だったのでしょう。
やがて1960年代に経営コンサルタントとして成功して名声を得てもドラッガー夫妻は日本画のコレクション熱は冷めませんでした。
日本企業の指南に来日したときも必ず画商に寄って、禅の表現を堪能したとのこと。
ルネッサンス以降の西洋美術と室町以降の水墨画の対比
西洋は技法が注目されることに対し、日本画は描く人自身が価値である。
与謝蕪村ら江戸時代の文人画(南画)と呼ばれる山水画も集めるようになった。
文人画とは山水画に小さな人物を加えた構図の絵なんだとか。
縛られた身分のうっぷんを絵の中では自由奔放に描いてはらしたのです。
偽物が多い村上玉堂も偽物を掴まされることがなかったそうです。(ものすごい審美眼です)
アメリカでは日本美術の講義も行っていたのだとか・・・。それは知らなかった。
日本美術の多様性、画家の個人主義を終生称賛していた。
そして西洋と遜色ない印象派や抽象画があることを世界に紹介し続けたのです。
ということで今から千葉市美術館に行ってきます。
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2015/0519/0519.html

(追記)千葉市美術館に行ってきました。
けっこうな数をコレクションしていたのですね。それも「なんでも鑑定団」で代表作として紹介されている銘品ばかりです。
室町時代の水墨画ばかりではなく、江戸時代の文人画(武士や僧ではなく儒者や中国古典の研究者が描いた画)も好んでいました。
室町時代の水墨画はトロポジー(幾何学)的な趣があり、現代風に言えばデザイン的なのだそうです。全体をふくめてデザインで完成させているところは西洋絵画にはないのです。
また江戸時代の禅宗の絵(達磨図)などは「体制への反逆精神」を表しているので、同時期の西洋美術と共通していることもドラッガーは指摘しています。
江戸時代の美術は芸術家達(武士や僧、市井の絵描き)にとってははけ口であり、現実逃避の手段だったのだと指摘しています。
ドラッガーは書斎にかけて当時の作者にシンパシーを感じていたそうです。
千葉市美術館は北斎や広重などの浮世絵や美人画も展示されていました。こちらも見事なものでした。
この美術館は昭和2年の旧川崎銀行の建物をそのまま保存しており、とてもよい雰囲気の市役所と併設された美術館です。

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Thursday, June 18, 2015, 02:02 PM
6/18 曇 10時 浅草での空間線量は16ベクレル/立法メートル
放射線コワイコワイひぃぃぃ~派が相変わらず福島の避難地域解除の政府発表に文句を言っております。
政治駆け引きでで動員された社会活動家と
本気でわずかな放射線が悪影響をおよぼすと信じている統合失調症(いわゆる気違い)の人たちでしょう。
インターネットにかじりついていたり、霞ヶ関でデモ行進をしたりする人を見て思うことは、煽動に踊る暇な人たちだなということ。
安全保障関連法案にせよ、普天間基地問題にせよ、単純にYES/NOで決められるものはないことを、はぐらかして問題点を矮小化するのでしょうか。
そして一方的な他人の意見(思想・思考・信条)を受け入れてしまう行動を私にはとても理解できません。
国家問題に関する社会運動に関わって碌なことはありません
なぜなら国家規模(国政)に関する問題は国家間の思惑や宗教や民族対立、社会主義思想(国民統制)、巨大資本の操作といった背景があるからです。
そんなものに市井の人が加わったところで、将棋の歩であり、示威行為(デモ)に利用されるだけです。
暇人か精神異常者しか付き合いきれません。だからすぐに内紛(内ゲバ)を起こすのです。
日米安全保障条約という軍事同盟が締結されている限り、集団的自衛権(同盟国家への攻撃に対する反撃)は当然であり、そもそもそのためのもの。戦争に巻き込まれる、戦争になるというのは安保条約締結の日から常にその状況です。反対派は何を今さら子供のような理屈を言っているのでしょうか。
独自戦力+核武装による安保条約の破棄をせよというのなら話がわかります。
自分たちで国を護ることは拒否して、兵力は持たない、兵器も開発しない、米軍出ていけとわめいている人たちは何を考えているのでしょう。
私はリバータリアンですから、日本の真の独立を望んでいます。
だから米軍基地が国内にあることは気分的にはよくないのですが、自国を護る意識さえ統制抑圧されている状況下、実際に米軍にべったりと依存していますからどうしようもなりません。
平和を愛するからこそ、日本はちゃんとした他国から干渉されない軍を持たねばならない。生命線であるシーレーンを守るのは日本の艦船しかないのです。
日本が正式に軍隊を表明すると世界は安定する
この逆説な平和主義をかつてから唱えていたのが小室直樹です。こういう深謀遠慮(しんぼうえんりょ)を発達障害者達は理解できないのだろうなあ。だからこそ頭が悪いと自覚している私を含めた人は、国政問題に少しでも関与してはならないのです。
自分への影響だけを心配する、関心を寄せる。
これをエゴイズムといいます。リバータリアニズムではエゴイズムこそ人間の尊厳だと考えられています。
さて新聞記事に病院でのCTやX線検査の被曝基準ができたという記事です。やっぱり記事はお気に入りの朝日新聞大石ゆりさんでした(笑)
CTやX線は診療報酬点数が高いから病院でも医院でもやりたがる
高価な機械を遊ばせておくわけにいかないので、病院経営上はひっきりなしに使いたいのです。一億円もする機械の元を取るためには一日に何十人もの撮影をして稼がねばならないという事情があります。
だいたい一回の検査で700~1000点が健康保険に請求されます。1点10円換算ですと7千円~1万円ですね。これに造影剤とかが加算されると3000点(3万円)ぐらいが病院の売上となるのです。
年間X線装置一台で数千万円、数億円、CT装置一台で2,3億円以上の売上を稼ぐのです。
医療機械というのは病院経営にとってもとても美味しいのです。しかも熟練者はいらない、専門学校を出たばかりの臨床検査技師で事足りるし、デジタル化されているのでボタンを押すかマウスでクリックするだけ。消費するのは電気だけという手軽さもあります。昔のように現像室だとか乾燥設備だとかがいりません。デスクトップコンピュータを別室に置いておけばよいだけです。
だから人口1万人に一台CT装置がある先進国で一番の多さなのです。
記事によると、日本人の年間平均医療被曝量は3.8mSv、X線検査一回の被曝量は1.5mSvです。
一度に受ける医療被曝は福島原発内での作業員の千倍万倍です
なんたって銀塩フィルムが感光し、半導体が発光するぐらいですから。
そんなことも知らないで、原発の放射線だけはコワイコワイひぃぃぃ~と騒いでいる人たちは滑稽ではないでしょうか。
あちこちが痛いからと日課のように病院に行って、勧められるがままX線だCTだと検査されてきて、なんとなく気が晴れたと思っているご老人がたの姿は、これぞジャパニーズ・ジョークです。

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